ファスナーを上げる人
戸倉美弥の背中で、衣装のファスナーが止まった。
イベント開始まで十五分。参加者の声とドライヤーの音が重なり、焦るほど指が届かなくなった。更衣室は混み合い、友人は先に撮影場所へ向かっている。鏡の中では、白い軍服の背中が十センチだけ開き、赤い裏地が見えていた。
「お手伝いしましょうか」
スタッフ腕章の女性が近づいた。
美弥は鏡越しに顔を見て、息を止めた。
人事部の御厨だった。
月曜には面談室で評価制度を説明し、廊下ですれ違えば姿勢まで正したくなる相手。御厨も美弥に気づいたが、眉一つ動かさず、会社の名字も役職も呼ばなかった。
「布を噛んでいます。少し下げますね」
事務的な声で、ファスナーの周りをほぐす。
「痛かったら言ってください」
美弥は腕で胸元を押さえながら、消えてしまいたかった。
会社では、色の強い服を避け、宴会の余興にも参加せず、目立たないようにしてきた。週末の写真では、堂々と隊長を演じている。二つの姿を同じ人に見られたら、どちらも演技だと思われそうだった。
御厨は安全ピンで裏地を留め、ゆっくり金具を上げた。
首元まで閉じると、鏡の中にいつもの隊長が完成した。
「ここでは、何とお呼びすれば?」
御厨が尋ねた。
美弥は迷い、「ミヤです」と答えた。
「ではミヤさん、修理は終わりです。私は今日は運営の御厨です」
それ以上、会社の話はしなかった。
御厨は《撮影中の事故防止》と書かれた札を首から下げ、次の参加者の荷物を運びに行った。美弥は撮影場所へ走った。カメラの前で剣を構えるとき、背中の安全ピンが少しだけ肌に触れた。隠しきれない弱点を、誰かが黙って留めてくれた印のようだった。
月曜の朝、御厨は廊下でいつもどおり「戸倉さん」と呼んだ。
机には小さな封筒が置かれていた。中にはあの安全ピンと、《返却不要。次回は予備を》という付箋。
美弥は引き出しへ隠さず、社員証のストラップに安全ピンを留めた。
人事部の前を通ると、御厨が一度だけそこを見て、静かに会釈した。