ブレーキを握る手

藤枝瑞帆は、高校二年になって初めて自転車の練習をした。

駅まで徒歩十五分。困るほどではない。でも、六月から朝の電車が一本減り、毎日ぎりぎりになった。

「後ろ押すから」

樫村蒼士が校庭裏の舗装路で荷台をつかんだ。

「絶対離さないで」

「離さない」

「前にもそう言って離した人がいる」

「誰」

「父」

「親を信用できなくなった原因が軽い」

瑞帆はハンドルを握りしめ、ペダルを踏んだ。自転車は蛇のように左右へ揺れる。蒼士の足音が後ろからついてきた。

「前見て」

「見てる!」

「俺を振り返るな!」

「離してないか確認してる!」

一周、二周。夕方の校舎から吹奏楽部の音が聞こえた。

最初の一周では、五メートル進むたび足をついた。二周目には用務員の軽トラックに驚き、ベルを鳴らし続けた。蒼士は笑わず、転びそうになるたび『目線は先』と同じ言葉を繰り返した。瑞帆はハンドルのすぐ前しか見ていなかった自分に気づき、校門の向こうにある駅の看板へ目を上げた。

三周目、瑞帆は急に身体が軽くなった気がした。振り返ると、蒼士は十メートル後ろで両手を上げていた。

「離した!」

叫んだ瞬間、前輪が花壇へ向かった。瑞帆は目を閉じ、教えられた通り右のブレーキだけを強く握った。

自転車は横倒しになり、瑞帆は芝生へ転がった。

蒼士が駆け寄る。

「大丈夫?」

「嘘つき」

「乗れてた」

「転んだ」

「振り返るまでは」

膝に土がつき、手のひらが少し擦れていた。それでも瑞帆は、自分が数秒間、誰にも支えられず進んでいたことを知っていた。

「もう一回」

立ち上がると、蒼士は笑った。

次は後ろを押さず、隣を走った。瑞帆がふらつくたび手を伸ばしたが、触れはしなかった。

日が沈む頃、二人は自転車で駅まで行った。瑞帆が一台、蒼士が一台。信号で並ぶと、蒼士が言った。

「明日から同じ電車だな」

「一本早いのにする」

「じゃあ俺も」

青信号になった。

瑞帆はブレーキから指を離し、今度は一度も振り返らずに走り出した。後ろではなく隣から、蒼士の笑い声が聞こえた。