ベランダの裏返ったシャツ
妻を亡くしてから、私は団地の住人と挨拶をしなくなった。
返事をすれば、その次に「お元気ですか」と聞かれる。元気ではないと答えるのも、元気だと嘘をつくのも面倒だった。
風の強い午後、向かいの棟に干された白いシャツが裏返った。
その瞬間、団地じゅうの時間が止まった。風も鳩も、滑り台から落ちる砂も動かない。
シャツが元へ戻るまで、私だけが歩けた。
久しぶりに外へ出た。
静かな団地は、巨大な家の中のようだった。
一階のベランダでは、いつも騒がしい双子が、落ちた洗濯ばさみを拾おうと同時に手を伸ばしていた。二階の若い母親は、眠った赤ん坊を抱きながら、私の部屋の方向へ会釈しかけている。昨日、泣き声がうるさいと壁を叩いた私に、謝るつもりだったのだろう。
集会所の前には、壊れた木の椅子が置かれていた。
妻が毎朝座っていた椅子だ。捨てられると思っていた。
見ると、脚は新しい木で補強され、背もたれには透明な塗料が塗られている。そばの箱には、住人それぞれの工具が入っていた。双子の家の金槌、若い母親の紙やすり、管理人の釘。
誰が言い出したのか分からない。皆が少しずつ直していた。
座面の裏には、鉛筆で小さく書かれていた。
「奥さんの花の話、また聞きたかったです」
妻は、人と話すのが好きだった。
私が知らないうちに、ベランダの朝顔の種を配り、子どもの帽子を直し、管理人へ漬物を届けていた。私は妻がいなくなって、自分だけが取り残されたと思っていた。実際には団地のあちこちに、妻の続きをしている人がいた。
向かいのシャツが風を含み、表へ返った。
時間が動き出す。
双子が洗濯ばさみをつかみ、赤ん坊が泣き、若い母親がこちらに頭を下げた。
私は集会所の椅子へ座った。
管理人が驚いて立ち止まる。
「もう少し乾かしてからの方が」
「大丈夫。うちに残っている塗料を持ってきます」
翌朝、私はベランダに二つの椅子を出した。
一つは自分用。もう一つには、妻が育てていた朝顔の鉢を置いた。
向かいの棟で白いシャツが揺れた。
裏返らなくても、そこに暮らす人の顔が、前よりよく見えた。