ホテルの白い送風口
ホテルの送風口は、眠れない客にも同じ白い風を出していた。
森下は出張先のベッドで、薄い掛け布団を胸まで引いた。壁の操作盤は二十四度を示し、機械は低く回っている。風が強くなり、弱くなり、また強くなる。遮光カーテンの端から、駐車場の照明が一本だけ床へ伸びていた。
明日の商談は午前九時。説明する内容は覚えている。資料も鞄に入れた。それなのに家ではない天井を見ると、言葉が全部順番を失った。
冷蔵庫の小さなモーターが動き、止まる。廊下の製氷機が、ごとん、と氷を落とす。雨は窓へ直接当たらず、外壁のどこかを流れる音だけがした。
午前二時、廊下でスリッパを引きずる足音が近づいた。
森下はドアの下の光を見た。影が止まり、隣の製氷機が回り始める。がらがら、と氷が紙コップへ落ち、誰かが慌てて一つ拾う気配がした。
「冷た」
小さな声がして、すぐ足音は遠ざかった。隣室のドアが開き、閉まる。廊下の光はまた均一になった。
顔も部屋番号も分からない。明日の朝食会場ですれ違っても気づかないだろう。ただ、同じホテルで氷を落とした人がいる。
ホテルの廊下は、誰が通っても痕跡を残さないように同じ柄の絨毯が続いている。それでも「冷た」という一言だけは、白い壁に短く触れて森下の部屋まで届いた。知らない客の失敗が、完璧でなくても夜は進むと示すほどの軽さだった。
森下はベッドから出て、製氷機へは行かなかった。机のペットボトルを一口飲み、カーテンの隙間を少し細くした。床の白い線が半分になる。
商談の最初の一文を頭の中で言ってみる。途中で言葉が詰まったが、もう言い直さなかった。九時の森下が続ければいい。
送風口が強くなり、シーツの端を揺らす。森下はベッドの中央ではなく、斜めに横になった。家ではできない寝方だった。
枕は二つあり、タオルも二組あった。予約人数が一人でも、ホテルは同じ数を置くらしい。余った一組を寂しさの形に見立てることもできたが、森下は片方の枕を足元へ移した。用意されたものを、用意された意味のまま使わなくてもよかった。
知らない部屋は、今夜だけ森下を預かる。自分の場所に変えなくても、朝まで使えばよい。隣の誰かが紙コップの氷を溶かしているあいだ、この白い風の下に一人でいても大丈夫そうだった。