レコードの裏側
喫茶「針音」では、客が一枚だけレコードを選べる。
写真家の真白は、窓辺の棚からジャケットを抜いた。知らない歌手だったが、海辺に立つ女性の写真が気に入った。
店主の久慈は盤面を柔らかな布で拭き、針を落とした。小さな雑音のあと、低い女声が流れ始める。歌詞は聞き取れない。それでも、冬の海へ薄日が差すような曲だった。
真白は一週間後の個展を控えていた。選んだ写真はどれも整っている。水平線は水平で、人の表情には意味があり、光は計算した場所へ落ちている。なのに並べてみると、どこにも自分がいない気がした。
「このジャケット、誰が撮ったんでしょう」
久慈は裏側の小さな文字を読み、「もう廃業した人だね」と答えた。
「上手ですよね」
「水平線、曲がってるけどね」
言われて見ると、確かに海が右下がりだった。女性も目を閉じかけている。完璧ではない。だからこそ、風の強さや撮影者の慌てた手まで写っているようだった。
久慈がコーヒーを置いた。深煎りの香りに、レコード盤の古い紙と埃の匂いが混じる。
曲が終わり、針が同じ場所を回り続けた。ぷつ、ぷつ、と規則正しい音だけが残る。
真白は鞄から展示候補の写真を取り出した。その一番下に、外すつもりだった一枚がある。雨の商店街で、傘を閉じ損ねた少年が笑っている。構図は傾き、ピントも少し甘い。
「これ、どう思います」
久慈は長く見てから、「濡れたアスファルトの匂いがする」と言った。
真白はその写真を鞄の一番上へ戻した。
外へ出ると風が吹いていた。店の中では次の客が針を落とし、壁越しに小さな雑音が聞こえた。真白は傾いた看板を一枚撮った。直さずに、そのまま。
個展の日、その写真は雨の少年の隣に飾った。客の一人が「少し曲がっていませんか」と言ったので、真白は「風が吹いていました」と答えた。説明としては不十分だったが、それで十分だった。会場の隅には久慈から借りたレコードが回り、微かな針音を立てていた。