レモンゼリーの夜勤票
準夜勤が始まる前、看護師の芙美が職員カフェで頼んだのはブラックコーヒーだけだった。席に戻ると、淡い黄色のレモンゼリーが添えられている。
「これ、会計してません」
栄養士の武石は「券が使われています」と答えた。候補は武石、当直医の峰岸、医事課の小早川。峰岸は芙美が甘いものを苦手だと知っている。小早川の父は先週までこの病棟に入院していた。
蓋のラベルには「N3」とある。砂糖は通常の半量。封の丸いシールには、耳の長い兎が描かれていた。小早川の父が、病室で折り紙の兎ばかり作っていたことを芙美は覚えている。
「小早川さんのお父さまから?」
小早川は首を振り、少しだけ笑った。「父と、私からです」
病院では患者や家族から個人への贈り物を受け取れない。その代わり、退院時に職員カフェの「夜勤応援券」を一枚購入し、部署だけ指定できる制度がある。小早川は父の退院手続きの際、三病棟を示すN3で券を出し、武石にだけ、芙美の好みに合わせて甘さを減らしてほしいと頼んだ。
入院中、父は不安になると何度もナースコールを押した。ある夜、芙美は忙しい顔を見せず、折り紙の続きを一緒に一回だけ折った。そのことを父は、退院後も繰り返し話しているという。
「直接お礼を言ったら、規則ですからって断られると思って」
「たぶん断りました」
「だから部署宛てです。芙美さんが食べても、規則違反じゃありません」
峰岸が通りがかりに「見事な診断だ」と言い、武石がスプーンを一本追加した。
芙美はあの夜のことをよく覚えていなかった。ナースコールが重なり、兎を折ったのも、患者の指を動かすための数分だった。それでも受け取った側には、その数分が退院後まで残る。規則は感謝を禁じるためでなく、誰か一人だけが背負いすぎないためにある。部署宛ての券へ変えた小早川の工夫は、芙美の仕事も父の思いも、どちらも軽くしなかった。
ゼリーは酸っぱく、最後にほんの少し甘かった。
小早川がスマートフォンの写真を見せる。家の窓辺に、折り紙の兎が三羽並んでいた。
「父、今夜は呼ばなくても眠れそうですって」