七分だけの湯船

水曜の夜、彼女は浴槽の縁に積もった薄い埃を、濡らしたティッシュで一周だけ拭いた。

本当なら、風呂用洗剤を吹きかけ、スポンジでこすり、排水口の髪まで取るべきだった。最後に浴槽へ湯を張ったのは、いつだったか思い出せない。毎晩シャワーで済ませ、休日に掃除してから入ろうと思い続けていた。

洗面台の引き出しには、友人にもらった入浴剤がある。乳白色の湯になる、小さな紙袋。誕生日にもらって半年、特別に疲れた日に使おうと取ってあった。

その日は特別ではなかった。会議が一つ長引き、帰りの電車で座れず、スーパーで買おうとした牛乳が売り切れていただけだ。大泣きするほどでも、誰かに話すほどでもない疲れが、肩のあたりへ平らに積もっていた。こういう疲れは説明しようとすると小さく見え、黙っていると一日ぶん重くなる。一人の部屋では、ため息さえ誰にも気づかれず、壁へ吸われていった。

彼女は浴槽の半分まで湯を入れた。満水にすると時間がかかるし、水道代も気になる。入浴剤の袋を破ると、白い粉が一度沈み、ゆっくり広がった。石鹸より甘く、花より静かな匂いがした。

スマートフォンのタイマーを七分に設定する。髪は洗わない。体も先に流さない。ただ服を脱ぎ、膝を曲げて湯へ入った。

浴槽は少しざらついていた。足先の向こうに、拭き残した埃が一本浮いている。それでも肩まで沈むと、息が長く出た。

一分目は仕事のことを考えた。三分目には、流しに置いた皿を思い出した。五分目、何も考えていないことに気づいた。

タイマーが鳴ったとき、彼女はすぐに立たなかった。音を止め、もう一度だけ肩を沈める。入浴剤の「一回分」を、七分で使い切ってしまったことが、少しぜいたくで、少し正しかった。

湯を抜いたあと、浴槽の掃除はしなかった。空の袋を洗面台の鏡の隅へ立てかける。洗濯かごから柔らかい部屋着を取り、濡れた髪はタオルで包んだままにした。

特別な日は来なかった。でも、普通の水曜日に使ってもよかったのだと、甘い匂いだけが部屋着についてきた。