三十二小節目の口パク
雛森セツの追悼ホログラムは、三十二小節目で存在しない歌詞を口にした。
元振付師の美濃部玲央は、客席からその瞬間を見た。曲は明るいダークポップ。黒い衣装のホログラムだけが、ピンクの照明を切り裂くように踊る。サビの最後、音声は長い母音で終わる。歌詞データもそこで閉じている。玲央は振付の全呼吸を覚えていたが、次の四拍だけは生前のセツが一度も踊っていない。
なのにホログラムのセツは、無音の四拍で唇を二度動かした。
「笑って」
玲央には読めた。ライブ中、イヤーモニターが故障した時も、セツは彼の口を読んで踊ったからだ。
事務所代表の久慈山は、傷や疲労を隠すため、いつも同じ命令をした。
「笑って。アイドルは心配させない」
足首を痛めても、過呼吸になっても、セツは笑った。亡くなった夜も、控室で倒れる直前まで配信を続けさせられていた。公式発表は持病による急死。だが玲央は、配信終了後に救急要請が二十分遅れたことを知っている。久慈山はその間、散らばった薬と契約書を片づけ、セツの頬へ化粧を足していた。
ホログラムの動作は、生前の映像から自動生成されたものだと説明されていた。玲央が運営卓へ入り、三十二小節目の参照元を開く。そこだけモーションデータが空白で、学習システムが「最も似た姿勢」を過去映像から補っていた。
呼び出されたのは、未公開のリハーサル映像だった。
スクリーンが切り替わる。床にうずくまるセツ。久慈山が腕を掴み、カメラへ顔を向けさせる。音声は消されているが、彼の口がはっきり動く。
「笑って」
客席が静まり返る。ホログラムは同じ動きをもう一度なぞる。笑顔を作りながら、目だけが怯えている。
久慈山が配信を止めようとする。しかし参照映像はすでに全画面へ送られ、記者席のカメラが彼を向いていた。
同じ命令が、ホログラムの口にもう一度浮かんだ。
最後の言葉は、死んだセツが観客を励ます歌詞ではなかった。
壊れた少女へ笑顔を強いた男の命令が、機械の口を借りて舞台へ戻ってきたのだ。