不揃いな縫い目
森下朔実は、母の針箱を修理店のカウンターへ置いた。
木の蓋には、赤い糸が一本挟まっている。母は朔実の服を何でも直した。袖を長くし、襟を詰め、「だらしなく見えない形」に縫い変えた。朔実が自分で買った服まで、留守中に直されていた。
ある夏、朔実が選んだ背中の開いたブラウスは、帰宅すると白い布で塞がれていた。母は「着られるようにしてあげた」と笑った。捨てれば母の手間を無駄にする気がして、朔実は一度だけ着て、二度と鏡を見なかった。
針箱には、切り取られた元の布が小さく畳まれていた。母は直す前の形まで保管しながら、娘には戻す選択を渡さなかった。
朔実はその布も教室へ渡した。母の手を否定する証拠として持つのも、母を中心にした保管だった。使いたい人が当て布にするなら、そこで別の役目を持てばいい。
店主は、針箱と小型ミシンを地域の裁縫教室で使いたいと言った。
その場で叔母から電話が来る。
「姉さんの針仕事を継ぐのは、朔実でしょう」
「私は縫わないよ」
「不器用だからこそ、道具を残して練習すればいいのに」
母も同じ呼び方をした。不器用な朔実。ボタン一つつけるたび、後ろから手を出された名前だ。
朔実は蓋を開けた。針山、糸巻き、指ぬき。底には、朔実が小学生のとき縫った歪な布袋が入っている。母は「見本にならない」と使わなかった。
朔実は布袋だけを取り出した。
「それを形見にするの?」と叔母が聞く。
「これは私が作ったもの」
針箱とミシンは教室へ譲る。母の技術を否定するのではない。自分が継承者に指名されることを断るだけだ。
店主が受領書を用意する間、赤い糸が蓋から床へ垂れた。朔実ははさみを借り、絡んだ部分を切った。
叔母には、今後裁縫の頼みを自分へ回さないでほしいと伝えた。叔母はため息をついたが、「教室の名前だけ教えて」と言った。
朔実は受領書の写真を一枚送った。
帰り道、歪な布袋へ財布を入れた。縫い目は不揃いでも、何も直さず口を結べた。