乾いた雨音
気象観測員の引き継ぎノートには、山腹の旧雨乞トンネルを徒歩で抜ける際の禁忌が一つある。
《坑内で雨音がしても、傘を開いてはいけない》
狩谷冬弥は二十五歳。観測機器の回収に向かう朝、空は雲一つなく、降水確率は零パーセントだった。それでもトンネルへ入って百メートルほどで、頭上から激しい雨音が降り始めた。
床も壁も乾いている。雨粒は見えない。音だけが傘を叩くように近づいてきた。
冬弥はノートの文を知っていた。しかし背負った精密機器を濡らすわけにはいかない。反射的に折り畳み傘を一度だけ開いた。
透明なビニール傘の上に、黒い水滴がびっしり浮かんだ。
水滴は下へ流れず、傘の中心へ集まり、そこから細い指の形になって柄を掴んだ。冬弥は傘を放り、機器だけ抱えて走った。出口の外には日差しがあり、服も靴も乾いたままだった。
回収した雨量計のデータには、トンネル通過時刻だけ異常値が記録されていた。機器の外装は乾いているのに、内部メモリには水没警告が百二十七回残っていた。
降水量 0mm
観測範囲 1名
帰宅後、冬弥の天気アプリは現在地を正しく示していたが、部屋の上だけ小さな雨雲が表示された。予報は《局地的な雨》、範囲は《半径0m》。
最初は誤表示だった。隣室の住人に確かめても、雨音は聞こえないと言う。管理会社の騒音計も無音を示した。だが夜になると、天井から雨音が聞こえた。壁紙も床も濡れていない。音だけが部屋の中を巡り、冬弥が移動するとついてくる。
翌朝、スマート傘立てから通知が届いた。
《傘が帰宅しました》
捨てたはずの透明傘が、玄関に立っていた。黒い水滴が内側へ張りつき、柄には濡れた指跡が残っている。
冬弥が触れずにいると、天気アプリが警報を出した。
《激しい雨が降り始めます》
《継続時間:生涯》
《避難先:旧雨乞トンネル》
部屋はまだ乾いていた。
ただ、スマートフォンの画面だけが内側から曇り、通知文の最後に新しい一行が浮かんだ。
《傘を開いてお待ちください》