二人きりではないふり
野々村柑奈と三津谷莉世が付き合っている、という落書きが机にあった。
ハートまでついている。
「字、下手だね」
莉世が言った。
「問題そこ?」
「柑奈の『柑』が間違ってる」
「問題そこじゃない」
放課後、二人は教室の備品点検をしていた。誰もいないのに、声を潜める。窓から差す夕日が、噂の文字だけを妙に鮮明にしていた。
柑奈は雑巾を濡らした。
「消すよ」
「嫌なの?」
「嫌っていうか、面倒。明日またからかわれる」
「そっか」
莉世の返事が軽すぎて、柑奈はこする手を止めた。
二人はいつも一緒だった。昼も、移動教室も、帰り道も。体育で組む相手を探すふりをしながら、最初から互いの方へ歩いていた。周囲が勝手に名前をつける前から、それが普通だった。最近は「仲良すぎ」と言われるたび、わざと一歩離れて歩くこともある。その一歩が、思ったより寒かった。
「莉世は嫌じゃないの」
「何が?」
「そう思われるの」
莉世は窓の方を向いた。頬が夕日と同じ色になっている。
「落書きの内容が正確なら、別に」
「正確じゃないでしょ」
「うん。付き合ってない」
胸の奥が小さく沈んだ。柑奈は雑巾を強く押しつけ、ハートの片側を消した。
莉世が続ける。
「だって、まだ誰にも聞かれてないから」
「何を」
「付き合ってくださいって」
教室の時計が一秒ずつ音を立てる。二人きりではないふりをするには、静かすぎた。
「それ、私に言ってる?」
「ほかに誰がいるの」
「机」
「じゃあ机にも聞く。野々村柑奈さんと付き合ってもいいですか」
柑奈は笑ってしまった。緊張で声が裏返り、笑いにしないと返事が出なかった。
「机は何て?」
「返事なし」
「じゃあ私が代わりに答える」
柑奈は雑巾を置き、消えかけたハートをペンで描き直した。ただし、間違っていた「柑」の字だけは正しく直した。
「落書き増やした」
「明日、からかわれるよ」
「面倒だね」
「うん」
二人は同時に笑った。
教室を出るとき、今度は一歩も離れなかった。机に残した噂は、翌朝から事実になる予定だった。