二人分の読書記録
樋口絢が蚤の市で買った古い長編小説には、赤と青の二色で感想が書き込まれていた。
赤が〈主人公は意地っ張り〉と書けば、青が次の頁で〈君ほどではない〉と返す。長年連れ添った夫婦の読書記録に見えたが、二人の正体は分からない。
絢は結婚を控えていたが、相手と同じ本を読んでも感想が合わず、少し不安になっていた。余白の二人は、登場人物をめぐって何度も喧嘩し、それでも必ず次の頁で返事をしている。意見が一致することより、会話が途切れないことのほうが夫婦らしいのかもしれない。そう思い、持ち主を探したくなった。伴は仕入れ箱の記録を調べ、小早川は以前の住人が病院へ通っていたことだけを覚えていた。
本を扱ったのは、出品者の芦原、古物商の伴、以前その家に住んでいた小早川の三人だった。
手掛かりは三つ。赤も青も「を」の輪が同じ形。日付は毎週水曜の面会時間に限られる。そして質問への返事は必ず一頁後、同じ日に書かれていた。
赤は強気で、青は冗談好き。けれど二人とも、別れの章だけ何も書いていなかった。絢は空白を読み飛ばせず、何度も前後をめくった。そこには〈今日はここまで〉という赤い一言だけがあり、翌週の青はまた日常の話から始まっていた。悲しみを説明しない優しさまで、同じ手が書いていた。
絢が芦原へ本を見せると、彼女は赤い表紙を抱きしめた。
二色とも、芦原の母の字だった。父を亡くしたあと、母は軽い認知症になり、毎週病院でこの本を読んだ。赤で自分の感想を書き、青で「父ならこう言う」と返事を書いたのだという。
「会話している間は、父の声を忘れないからって」
芦原は家を整理する際、箱を取り違えて売ってしまった。探していたが、夫婦の秘密を知られるのが恥ずかしく、古物商にも詳しく言えなかったらしい。
絢は本を返した。代金はいらないと言ったが、芦原は押し問答の末、近くの甘味処へ連れていった。
「母に読んでくれる人が一人増えた、と話してもいいですか」
水曜、絢は病院を訪ねた。母は赤ペンを持ち、青い余白を指した。
「この人、返事が遅いのよ」
絢は一頁めくり、青で〈待たせてごめん〉と書いた。
三人でどら焼きを分ける。餡を一口食べた母が笑う。
「今週は、返事が早いわね」