二重線のカード

神谷穂澄は、送別カードを五枚書き損じていた。

異動する先輩へ渡す、名刺ほどの小さなカード。「三年間ありがとうございました」と書いたあと、続く言葉が決まらない。頼りになりました、では月並み。勉強になりました、では上から目線に見えるかもしれない。寂しいです、は重い。

一枚目は「ございました」の字が傾き、二枚目はインクが滲んだ。三枚目には「いつも」の「つ」を一つ多く書いた。四枚目は余白が左右で違い、五枚目は最後の一行が窮屈になった。

残りは一枚だけだった。

締切は今日の十五時。総務担当が回収に来るまで、あと二十分。穂澄は定規で鉛筆のガイド線を引き、ゆっくり書き始めた。

「三年間ありがとうございました。先輩が朝、給湯室で」

そこで「会う」を「合う」と書いた。

穂澄の胸が冷える。修正テープを使えば跡が残る。二重線では雑に見える。新しいカードをもらいに行けば、どうして六枚も必要なのか聞かれるかもしれない。

先輩との思い出は、いつも朝の給湯室だった。二人とも早く出社し、電気ケトルが沸くまで天気や電車の話をした。立派な助言をもらったわけではない。ただ、忙しい日の前に交わす数分が好きだった。

そのことを書きたいのに、穂澄は「合う」という一字のために、思い出ごと捨てようとしている。

彼女は黒いペンで「合う」に二本線を引き、その上へ小さく「会う」と書いた。

続きも、下書きどおりにはならなかった。「少し安心しました」と書くつもりが、「ほっとしていました」になった。最後の字は、カードの端ぎりぎりだった。

穂澄は新しいカードを取りに行かなかった。

十五時、総務担当の箱へその一枚を入れる。ほかの人のカードは、色ペンやシールで整っている。穂澄のカードには黒い二重線が一本ある。

箱の蓋が閉じたあとも、書き直したい気持ちは残った。

夕方、給湯室で一人ぶんの湯を沸かす。先輩のマグカップはもう片づけられていた。穂澄は、自分の紙コップへ少し多く湯を注いだ。

二重線の下にある間違いは、たぶん読める。それでも、伝えたかった朝のことまで消えずに届く。穂澄はそう決めつけず、ただ、カードを取り戻しには行かなかった。