会社の公式には載せない
玲奈の同人アカウントが一晩で十万回拡散された。
人気作品の登場人物たちが、コンビニのおにぎりを選ぶだけの短い漫画。作者名は「薄荷雨」。勤務先を示すものは何も描いていない。
それでも翌朝、広報部の上司が玲奈を会議室へ呼んだ。机の上には、漫画を印刷した紙がある。
「これ、君だよね。線の癖でデザイナーが気づいた」
玲奈は退職届まで考えた。会社では控えめな事務担当で、昼休みに絵を描くことも隠している。フォロワー数を知られれば、仕事を疎かにしていると思われるか、逆に面白半分で扱われる。
上司は紙を指した。
「うちの新商品の公式漫画を、このアカウントで紹介してほしい」
胸の奥が冷えた。
「できません」
「業務として報酬は出す。十万人に届く広告枠を使わない手はない」
玲奈は漫画を裏返した。
薄荷雨は、評価表も売上目標もない場所だった。好きなものを好きな速度で描き、失敗したら消さずに次を描く。その場所まで会社の数字に変えられたら、二つの自分が一つになるのではなく、片方が食べられてしまう。
「副業規定には届け出ます。でも、アカウントは会社に貸しません」
上司が不満そうに息を吐く。すると同席していた法務担当が口を開いた。
「本人の私的アカウントを業務利用する契約はありません。断る権利があります」
会議はそこで止まった。法務担当は退室前、裏返された漫画を玲奈の側へ戻した。
「好きなものを仕事にしない自由も、仕事にする自由と同じです」
午後、玲奈は副業申請書を書いた。収益は小額、活動内容は自主制作漫画。隠すためでなく、会社と自分の線を引き直し、好きな場所を守るための届け出だった。
作者アカウントのプロフィールも更新する。
《個人の趣味による創作です。所属先とは関係ありません》
会社員であることは書かない。本名も出さない。それでも以前のように、見つからないでと祈りながら投稿を消すことはしなかった。
夜、新しい漫画の一コマ目を描く。登場人物は、おにぎりではなく好きなアイスを選んでいる。
玲奈は会社の公式には載せない絵を、自分の場所へ投稿した。