伝言係を降りる

母からの電話は、いつも誰かの話で始まる。

『結月、弟に言って。日曜は帰ってくるようにって』

結月は会社の給湯室で、紙コップの縁を指でつぶした。昼休みはあと七分。母の声は、弟への不満を結月の耳へ流し込む。

『あの子、私の電話には出ないのよ。あなたからなら聞くでしょう』

「私からは言わない」

『どうして? 家族のことなのに』

「だからだよ。二人で話して」

母は一拍黙り、すぐに声を低くした。

『お母さんがどれだけ傷ついてるか、あなたは分かるでしょう』

「分からない」

『結月までそんなこと言うの? 昔からあなたは聞き分けがよかったのに』

紙コップが小さくへこんだ。「聞き分けがいい」は褒め言葉の形をした役割だった。母が怒れば弟をなだめ、弟が逃げれば母の話を聞く。どちらにも嫌われないように言葉を丸めて運ぶうち、自分の用事はいつも最後になった。

『日曜の十一時。そう伝えるだけでいいの』

「伝えない」

『じゃあ私が倒れてもいいのね』

「倒れたら救急車を呼んで。弟は呼ばない」

『冷たい子』

結月は給湯室の時計を見た。あと五分。

「お母さん、これから人の伝言は受けない」

『何よ、急に』

「弟のことは弟へ。お父さんのことはお父さんへ。私のことだけ、私に話して」

『じゃあ、あなたは日曜に帰ってくるの?』

「帰らない。休む」

『家族より自分が大事なのね』

「うん。日曜は自分を大事にする」

口にすると、ひどく簡単な文だった。

母の息が受話口で荒くなる。結月は謝りそうになり、代わりに紙コップを机へ置いた。

「昼休みが終わるから切るね」

『まだ話は終わってない』

「私の話は終わった」

通話を切る。すぐに弟の名前が画面に浮かんだ。母が先回りして電話したのかもしれない。結月は出なかった。

代わりに短いメッセージを送る。

〈母さんとのことは、二人で決めて。私は間に入らない〉

しばらくして、返信が来た。

〈分かった。姉ちゃんも俺のことで呼ばれたら断って〉

その一文に、仲直りの約束はなかった。家族が一つになる言葉もなかった。ただ、誰の荷物を誰が持つかが、初めて分かれていた。

結月はへこんだ紙コップを捨て、新しいカップに自分の分だけコーヒーを注いだ。昼休みはあと三分。三分あれば、熱いうちにひと口飲める。