傘立てのいちばん奥
喫茶店の傘立てには、赤い傘が一本だけ残っていた。
店主の妻が使っていた物で、亡くなってから十年、雨の日も貸さずに奥へ置いていた。
布は色あせ、骨も一本曲がっている。
梅雨の夕方、制服姿の客が窓際で雨を見ていた。
閉店時刻になっても帰ろうとしない。
店主が「傘は」と聞くと、客は「迎えが来ます」と答えた。
そのとき、赤い傘が傘立てから自分で倒れ、客の足元へ滑った。
店主が戻しても、また倒れる。
赤い傘は、雨の中へ出られずにいる人の方へ傾くらしい。
「貸すだけだ」
店主が言うと、客は首を振った。
「迎えが来るから」
外は暗くなり、連絡を取る様子もない。
店主は妻の傘を他人へ触らせたくなかった。
妻が最後に出かけた日も、この傘を持っていた。
病院から戻った傘だけが玄関に立ち、妻は帰らなかった。
それ以来、赤い布は妻の不在を守る旗のようだった。
客が立ち上がった。
「走ります」
赤い傘が勢いよく倒れ、店の扉を叩いた。
店主は諦めて渡した。
「明日返せ」
客はしばらく黙り、
「家に帰るとは言ってません」
と答えた。
店主はようやく、迎えなど来ないことに気づいた。
客は家族と喧嘩し、行く場所がないらしい。
詳しい事情を聞かず、店の電話を貸した。
客は学校の先生へ連絡し、迎えを頼んだ。
待つ間、二人で赤い傘を直した。
店主が曲がった骨を伸ばし、客がほどけた糸を結んだ。
「奥さんのですか」
「そうだ」
「怒りませんか」
「貸さない方を怒ってるかもしれん」
先生が来ると、客は赤い傘を持って出た。
店主は追いかけなかった。
妻の物が雨の中で小さくなっていくのを、十年ぶりに見送った。
翌日、傘は返ってこなかった。
代わりに一週間後、別の赤い傘が傘立てに入っていた。
安物の新品で、持ち手に紙が結ばれている。
「古い方は、次に困っている人へ貸しました」
店主は笑い、少し泣いた。
妻の傘がどこにあるか分からない。
それでも失くしたとは思わなかった。
新しい赤い傘は、雨の日になると傘立ての奥から少しずつ前へ出た。
店主はもう押し戻さない。
閉店後、濡れた客がいれば、
「返さなくていい。次の人に渡して」
と言う。
妻の傘は、誰かの家に置かれるたび、持ち主を変えたのだろう。
大切にすることは、動かさず残すことだけではなかった。