六十秒前の満タン
立花は開始ベルと同時に、校正用の酸素ホースを自分の測定孔へ差し込んだ。
五秒だけ純酸素を吹きつけ、すぐに栓を戻す。
汐見と葛城は各自の透明箱で息を止めた。三十秒後、表示酸素濃度が最も高い者だけが生き残る。それが規則だった。
《判定時、卓上モニターの表示値が最大の参加者を勝者とする》
三人の箱は同じ容積で、空気も同じ二十・九パーセント。汐見は一度も呼吸しなければ減らないと考え、頬を膨らませる。葛城は服の隙間に息を吐き、測定孔へ届かせまいとしていた。
立花は普通に呼吸している。彼の箱の実際の酸素は、二人より確実に減っていた。
残り五秒。汐見の目に勝利の確信が浮かぶ。
判定音。
《立花、23.8%。汐見、20.9%。葛城、20.6%》
「あり得ない!」
汐見が息を吐き出した。
立花はモニター右下の小さな文字を指す。
《AVG 60 SEC》
表示値は今この瞬間の濃度ではなく、過去六十秒の移動平均だった。ラウンドは三十秒しかない。開始直後に入れた純酸素の高い値は、判定時にも平均の半分近くを占めている。
校正ホースは三箱すべてに付いていた。二人は機械の一部だと思い込み、触らなかった。封印も使用禁止の表示もない。
主催者の声が震える。
「実際の酸素量では、あなたが最低です」
「規則は実際値じゃなく、モニターの表示値を比べると言った」
計器は嘘をついていない。ただ、どの時間を答えているかを二人が読まなかっただけだ。
《勝者、立花》
モニターは一秒ごとに更新されるのに、数字の変化だけが不自然に鈍かった。立花はそれを故障ではなく平均処理の証拠と見た。校正ホースの止め具には《最大五秒》とあり、その制限内なら警報も失格判定も出ない。短い高濃度を、長い記憶へ混ぜるための五秒だった。
汐見の箱にも同じ刻印があった。知識の差ではなく、読む範囲の差だった。
箱の前面が開く。立花は止めていた校正ホースを丁寧に巻き、六十秒前の満タンを連れたまま外へ出た。