冷蔵庫の上の判決

 法律事務所の事務員、堂前沙月は、帰宅後も頭の中で書類を並べていた。

 甲第一号証、乙第二号証、明日の期日、先生への確認事項。靴を脱ぎながら考え、歯を磨きながら考え、布団へ入ってからも、抜けた頁がないか思い返す。

 その猫は、地方裁判所の裏庭で弁当の袋を覗いていた。

 警備員によれば数日前からいるらしい。雨の予報を見た沙月は、一晩だけとキャリーを借りて連れ帰った。

 黒い鼻筋が裁判官の法服のように見えたので、「判決」と呼ぶことにした。

 判決が気に入った場所は、冷蔵庫の上だった。

 沙月が夜遅く帰り、夕飯を抜こうとすると、上から見下ろして鳴く。

「原告は空腹を主張しておりません」

 もう一度鳴く。

「証拠は?」

 判決は冷蔵庫の扉へ前足を伸ばした。

 沙月の腹が鳴った。

「……自白が成立しました」

 冷凍うどんを温め、卵を落とす。出汁の香りが立つと、判決はようやく棚から下り、自分の器へ向かった。

 二人の食事が終わるまでが、その日の審理だった。

 しかし沙月は、食後も仕事用のパソコンを開いた。

 翌週の裁判に使う資料の番号が気になったのだ。判決は机へ乗り、画面の前に座る。

「退いてください」

 尾がキーボードを払う。

「業務妨害です」

 判決は欠伸をし、そのまま前足を折りたたんだ。

「被告人、反省の色なし」

 動かない。

 沙月は仕方なくパソコンを閉じた。

 猫を抱き上げると、胸に低い振動が伝わる。事務所では誰かの争いを正しい順序に並べるが、家まで正しさを持ち帰らなくてもよいのかもしれなかった。

 飼い主を探す掲示は一か月で外した。

 正式な譲渡書類へ署名する日、沙月は隅々まで三回読んだ。保護団体の人が「さすが法律事務所」と笑う横で、判決は書類の上へ肉球を置いた。

「承認、ということでいい?」

 猫は紙から動かなかった。

 その夜、沙月は九時にパソコンを閉じた。

 生姜を入れた卵うどんを食べ、湯気で曇った眼鏡を外す。判決は冷蔵庫の上ではなく、隣の椅子で眠っていた。

 本日の審理は終了。主文、飼い主は休むこと。

 異議はなかった。部屋には出汁と生姜の匂いが残り、猫の喉の音が、木槌よりずっと柔らかく夜を閉じた。