包丁を置く音
新田小夜がレストランを辞めると決めたとき、葛城杏沙は「逃げたら、あの人のやり方が残る」と言った。
「あの人」は料理長だった。皿が遅いと台を蹴り、仕込みを間違えた新人へ布巾を投げる。小夜は一度、飛んできた小鍋で腕に青あざを作った。杏沙はそのたび間へ入り、仕事を覚えれば標的にされなくなると新人を支えた。
小夜には、それが耐える技術の継承に見えた。杏沙には、辞める小夜が後輩を残していくように見えた。
最終出勤日のディナー前、十九歳の見習いがソースを焦がした。料理長は鍋をつかみ、床へ投げた。金属音が厨房に跳ね、熱いソースが見習いの靴へ散った。
小夜は火を止めた。料理長が怒鳴る。
「お前はもう辞めるから好きにできるな」
小夜は否定しなかった。包丁をまな板へ置き、見習いの足に水をかける。杏沙は予約表を見た。満席まであと二十分。ここで厨房を止めれば、客にもホールにも迷惑がかかる。残る自分の評価は終わる。
料理長が新しい鍋を火にかけた。
杏沙はガス栓を閉めた。
「何してる」
「安全確認です」
「続けろ」
「続けません」
小夜が救急箱を持ち、杏沙が見習いを椅子へ座らせた。二人は火傷の程度を確認し、ホール責任者へ営業停止を伝える。長い正義の話はしなかった。小夜は冷却材を交換し、杏沙は予約客へ電話をかけた。濡れた床を乾いた布で囲い、ほかのスタッフが滑らない通路も作った。
料理長は裏切り者と呼んだ。小夜は、その言葉なら辞める自分だけが受ければいいと思った。だが杏沙は自分の包丁も洗い、乾いた布の上へ置いた。
「私は辞めるとは言ってない」
「じゃあ、なんで」
「残ることと、従うことは同じじゃない」
小夜は理解したとは言わなかった。杏沙も、小夜の退職を認めたとは言わなかった。
二人は厨房の刃物を本数どおりケースへ戻し、施錠した。見習いをタクシーまで送るため、小夜が鞄を持ち、杏沙が肩を貸す。
最後に二人で店頭へ出た。小夜が札を裏返し、杏沙が扉の鍵を回す。「本日休業」の文字が、予約客の来る前に表を向いた。