化学室の匂い
薬品棚の点検を終えたころ、窓の外が真っ白になった。
さっきまで見えていた中庭が、豪雨の幕に隠れている。私と同じ班の彼は、換気扇を止め、開いていた窓を一つずつ閉めた。
制服の袖が雨に濡れ、化学室には土の匂いが流れ込んだ。エタノール、古い木の机、洗いきれなかった硫黄。そこへ雨の匂いが混ざる。
「実験みたいだね」
私が言うと、彼は鼻を動かした。
「何と何の反応?」
「学校と夏の終わり」
「生成物は?」
「帰れない二人」
彼は笑わなかった。
来週から、彼は科学部に来ない。模試の判定が下がり、塾を増やすらしい。顧問には「一時休部」と言ったが、机の引き出しはもう空だった。
「本当にやめるの?」
「受験生だから」
「私たち、まだ二年」
「家では、もう二年しかないって言われる」
雨粒が窓を叩いた。フラスコを洗う音より規則正しい。
私は点検表の裏に、今日の匂いを書き始めた。
〈濡れた土、エタノール、木、少し焦げたゴム〉
「何してるの」
「記録」
「数値がない」
「匂いに数値はいらない」
彼はペンを取り、最後に付け足した。
〈言い訳の匂い〉
「何それ」
「部活をやめる理由。正しそうに聞こえるけど、たぶん逃げたいだけ」
初めて、彼の声が揺れた。
先月の実験発表で失敗してから、彼は自分の仮説を口にしなくなった。模試は本当でも、それだけではなかった。
私は未使用の試験管を一本、彼の前に置いた。
「じゃあ実験しよう」
「何を」
「週一回だけ来て、成績も上げられるか」
「対照実験は?」
「完全にやめた場合の君」
「観測できない」
「だから、やめないほうだけ試す」
彼はしばらく試験管を見つめ、それから点検表に丸をつけた。空にしたはずの引き出しから実験ノートを一冊だけ取り出し、最初のページに〈継続条件・週一回〉と書いた。
雨が止むころ、化学室には湿った制服の匂いが残っていた。
翌週、彼は白衣を持ってきた。
「生成物、訂正していい?」
「何」
「帰らなかった二人」
その言い方は化学的に正しくなかったが、私は点検表の余白に、消えない油性ペンで書き足した。