午前二時四十分の表札

午前二時四十分、笠原郁斗は本郷小萩からの電話に出た。

「宅配ロッカーに、郁斗宛ての荷物が来てる。受取期限、あと十分」

小萩が住んでいた古いマンションだ。郁斗が住所を使ったのは三年前、二人で暮らす部屋を探していた頃しかない。

「送り主は?」

「真鍮工房。箱に〈製作遅延のお詫び〉って」

「開けていい」

テープの音のあと、小萩が黙った。ロッカーの狭い空間で、包装紙をほどく音だけが何度も反響した。

「表札だ。私と郁斗の名字、二つ並んでる」

郁斗は思い出した。内緒で注文した連名の表札。受取前に工房が水害で休業し、そのまま忘れていた。

「一緒に住む気、あったの?」

「もちろん」

「じゃあ、どうして〈無理だ〉って言ったの」

三年前、小萩の父親が郁斗を呼び出した。家を出れば学費の援助を打ち切り、弟の進学費も出さないと言った。小萩が家族を捨てることになると思い、郁斗は同棲を断った。

「父に言われた。君には話すなって」

「私、もう援助を断ってたよ」

「聞いてない」

「あなたが話を断った翌日に、父から〈目が覚めただろう〉って連絡が来た。郁斗も父と同じ考えだと思った」

箱の底から工房の手紙が出てきた。注文日は、郁斗が〈一緒に住めない〉と言った二日前。刻印の指定欄には、小萩の名字を先にしてほしいと書かれている。

二時四十七分。三年間、二人のどちらも知らなかった家が、掌ほどの金属板だけになって届いた。小萩が傾けると、二つの名字が冷たい光を返した。

「明日、引っ越す」と小萩が言った。「今度こそ、この部屋も出る」

「誰かと?」

「一人。もう人の決めた理由で住む場所を変えたくないから」

郁斗は引き止めかけて、やめた。誤解が解けたことと、信頼が戻ることは同じではない。

ロッカーが期限切れを知らせる音を鳴らす。

「転送する?」

「いや。小萩が持ってても困るだろ」

「郁斗もね」

二時五十分、小萩は真鍮の表札を箱へ戻した。ロッカー画面で〈受取拒否〉を選び、扉を閉める。二人の名字は、一度も玄関に掛からないまま、工房へ返っていった。