受理印から三十日
藤堂修吾の離婚届が受理されたのは、午後五時十二分だった。
市役所の夜間窓口が閉まるまで十八分。葛西亜弓は庁舎のロビーで、修吾が封筒を受け取るのを待っていた。
二人は同じ部署で働いていた。修吾が別居した頃から、一緒に残業する姿を見た人たちが「原因は亜弓らしい」と噂した。実際には手もつないでいない。けれど亜弓は彼を好きになっていた。
好きと言えない理由は、その噂を過去の事実に変えたくないからだった。離婚後に付き合えば、時系列など誰も気にしない。元妻が傷ついた理由まで、自分の名前で上書きされる気がした。
亜弓は噂を否定するたび、修吾との会話まで削った。昼休みの席を変え、二人きりの残業を避け、業務連絡にも別の社員を入れた。何もなかったことを証明するため、実際に芽生えた気持ちまでなかったことにしようとした。その努力が報われる日は、離婚成立日ではないと分かっていた。
修吾が戻り、封筒を掲げた。
「今日から独身」
「お疲れさま」
「今日からなら、食事に誘ってもいい?」
「だめ」
返事が早すぎた。修吾はロビーの椅子に座り、亜弓も隣へ座るしかなかった。出口は清掃中で、閉鎖が終わるまで通れない。
「どうして」
「すぐ付き合ったら、みんなの噂が当たってたことになる」
「当たってない」
「私たちは知ってる。でも元奥さんは、そう思わないかもしれない」
「じゃあ、いつならいい」
亜弓は答えられなかった。修吾は封筒を鞄へしまった。
「もう自由、なんて簡単に言って悪かった。昨日までのことは、今日で消えない」
「うん」
「でも、噂に俺たちの未来まで決めさせないで」
清掃員がロープを外した。夜間窓口の灯りも消える。
亜弓はスマートフォンを開き、修吾とのトーク画面を表示した。週末の連絡を避けるため、通知を一か月ミュートにしていた。
「今日から、じゃなくて」
三十日後の日付を選び、『夕食』という予定を作る。
「三十日、ちゃんと待つ。そのあと、まだ行きたかったら」
招待を送信し、ミュートだけを解除した。