句点までの三十秒

答辞の原稿には、赤い丸が二十七個ついていた。

正宗が言葉につまる場所を、練習のたびに香澄が数えた印だった。

「直したほうがいい単語、ある?」

「ない」

「もっと言いやすい文に」

「しない。正宗が書いた文だから」

正宗は幼いころから、言葉の最初で息が止まることがあった。教室では待ってくれる人もいれば、代わりに言ってしまう人もいた。どちらも善意だと知っていたが、自分の言葉が自分より先に到着するのは、いつも少し寂しかった。

卒業式当日、壇上から見える体育館は海のようだった。

正宗は原稿を開いた。

「私たちは、本日、この学び舎を――」

最初の数行は言えた。練習どおりだった。

けれど最後の段落、「別れ」という言葉の前で、息が閉じた。

べ、の形のまま声が出ない。

時計の秒針が聞こえた。保護者席で誰かが咳をした。壇上の先生がわずかに身を乗り出す。

正宗は原稿を握った。ここで誰かが続きを言えば、式はきれいに進む。けれど、それではこの三年間と同じだ。

五秒。

十秒。

卒業生の列の中で、香澄が膝を一度叩いた。

とん。

練習のとき、焦った正宗へ「次の息」と合図した音だった。

正宗は吸った。

まだ声は出ない。

香澄は二度目を叩かなかった。待っていた。クラスも、先生も、体育館全体も。

二十秒。

正宗は視線を原稿から上げた。二百人の顔があった。誰も口を動かしていない。誰も助けようとしていない。その静けさが、初めて自分のための場所に思えた。

三十秒目、声が出た。

「別れは、言葉を失うことではありません」

最初の一音は震えた。そのあとも、何度かつかえた。

「それぞれが、自分の言葉を持って、違う場所へ進むことです」

最後の句点まで読み切る。

礼をした瞬間、拍手が起きた。急かす音ではなかった。三十秒を含めて受け取る音だった。

式後、香澄が原稿を見せてと言った。正宗が渡すと、彼女は最後の句点へ赤い丸をつけた。

二十八個目。

「ここも、つまった?」

「ううん」

「じゃあ何」

「ちゃんと着いた印」

正宗は丸のついた原稿を折らずに抱えた。

卒業式の記憶で最も長かったのは、答辞ではない。

誰も彼の続きを奪わなかった、あの三十秒だった。