同意書の右下

治験の説明室で、鷹取弥生は同意書の右下を見つめた。

版番号は三・一。今朝届いた改訂版は三・二だった。

参加を希望する患者は、遠方から家族と来ている。診察も検査も終わり、あとは署名だけ。患者は帰りの新幹線の時刻を気にしながらも、副作用が出た夜はどこへ電話すればよいのか、と説明の途中で確かめていた。後輩が共有フォルダから印刷した書類には、重い副作用が出たときの連絡先変更が反映されていなかった。夜間窓口の番号だけでなく、受診費用の説明も一文変わっている。患者が後から困る変更だった。

「説明内容はほとんど同じです。新しい連絡先を口頭で補えば、今日は登録できます」

担当医は予定表を見た。登録期限は今日。逃せば次の機会はないかもしれない。だからこそ、誤った連絡先へ署名させたまま急がせることはできなかった。

弥生はペンを患者の前から下げた。

「署名する書類と、受け取る説明が違う状態では進められません」

患者の落胆が見えた。弥生自身も胸が痛んだ。それでも、急がせることと選ぶ機会を守ることは違う。

弥生は改訂版を取り寄せる間、変更点を一つずつ説明した。患者には、今日署名しなくても不利益にならないこと、質問を持ち帰ってよいことを伝える。後輩には謝罪文ではなく、版番号を確認できなかった原因を一緒に探してもらった。

共有フォルダでは、旧版も新版も〈同意書_最新〉という同じ名前だった。弥生は旧版を閲覧専用の保管場所へ移し、印刷画面に版番号と承認日を大きく表示する。診察予約にも、前日に最新版を照合する項目を追加した。

午後の終わり、患者は三・二版を読み直し、自分のタイミングで署名した。変更点について一つ質問し、家族と目を合わせてからペンを取った。その間、誰も時計を指さなかった。

担当医は安堵したあと、「倫理支援室へ転職するんだって? 現場から離れるのはもったいない」と言った。

弥生は、現場を離れたいのではなかった。今日のような判断を、一人の勇気ではなく、どの説明室でもできる手順にしたい。

患者を見送ったあと、転職先から届いた最終確認を開く。弥生は、今日改めた版管理手順を添付した。

〈入職します。最初の検討資料として持参します〉

送信した画面の隣で、同意書の右下の署名が静かに乾いていた。