名刺のない代表
錦織原紗永は、翻訳の打ち合わせを終えた喫茶店で婚約を破棄された。
白河院尚弦は、隣に座る時雨森澪奈都を紹介した。
「澪奈都さんは外資系企業のアジア統括だ。個人で細々と翻訳する紗永より、世界を知っている」
澪奈都は金色の名刺を置いた。
「仕事を頼まれたら、下請けとして使ってあげてもいいですよ」
紗永は名刺を持っていなかった。
「必要になったら、会社のページを見て」
尚弦はそれを強がりだと思った。
翌週、世界的な動画配信企業が、日本の言語技術会社を買収する発表会を開いた。尚弦の勤め先も関連企業として出席し、澪奈都は壇上近くで“交渉責任者”を名乗っていた。
買収される会社の代表として現れたのは紗永だった。
彼女は一人の翻訳者ではなく、百二十言語へ映像・医療・契約文書を翻訳するプラットフォームの創業者だった。会社の株式を六割保有し、買収対価は二千億円。個人翻訳を続けたのは、機械が誤訳する痛みや、依頼人が言葉を託す重さを忘れないためだった。報酬の少ない難民支援文書も、匿名で引き受けていた。紗永は売却後も世界言語部門の最高責任者を務める。
尚弦は椅子から立ちかけた。
澪奈都は慌てて説明する。
「私がこの買収を日本側でまとめました」
配信企業の役員が不思議そうに彼女の名刺を見た。
「あなたは三か月契約の広報補助です。統括職ではありません」
さらに澪奈都は、買収前の資料を尚弦へ見せ、自分の成果として語っていた。守秘義務違反で契約は即時終了。尚弦もその情報を自社の提案書へ流用しており、社内調査を受けることになった。
尚弦は紗永へ近づく。
「君が代表なら、もっと堂々と名乗ればよかった」
「名刺を見なくても、私の仕事を知ろうとしてほしかった」
紗永は買収契約へ署名した。報道画面に会社名、創業者名、二千億円の金額が並ぶ。
澪奈都の金色の名刺が回収され、尚弦の提案書が証拠資料へ移された瞬間、何も持たないと思われた紗永だけが、名刺一枚に収まらない会社と世界中の言葉を持っていた。