名前を呼ばない朗読

芦田が送った文章は、名前を付けずに読まれた。

深夜の音声番組では、眠れない人から届いた短い文を配信者が朗読する。投稿欄には表示名を書く場所があったが、芦田は空欄のまま送信した。

内容は、部屋の蛍光灯についてだった。

消すと寂しく、点けると眠れない。だから台所の灯りだけを残し、冷蔵庫のモーターが止まるまで待つ。そんな何でもない夜のこと。

午前一時半、芦田は布団の上で配信を開いた。自室の台所灯が廊下の壁へ薄く届いている。空調は弱く回り、雨が窓枠の金属を細かく鳴らしていた。

番組には十七人がいた。

別の人の文章が二つ読まれたあと、配信者が「次は、お名前のない方からです」と言った。

芦田の書いた言葉が、知らない声で始まる。

自分で読むより落ち着いていた。句読点の場所も、息を吸う長さも違う。蛍光灯という言葉が少し柔らかく聞こえ、冷蔵庫の低い音まで文章の一部になった。

途中で、月の反応が一つ流れた。続いて、湯気の反応が一つ。誰が押したのかは分からない。芦田の文章だと知る人もいない。

読み終えた配信者は、感想を長く述べなかった。

「台所の灯りって、遠くから見ると小さいですね」

それだけ言い、次の投稿へ移った。

芦田は安心した。励ましてほしかったわけではない。孤独を大切な物語へ変えられるのも困る。ただ自分の夜が、一度だけ別の喉を通り、誰かのイヤホンへ流れた。

番組が続くあいだ、芦田は台所灯を見ていた。冷蔵庫が止まり、また動き出す。雨は弱まり、空調の羽根が一度軋んだ。

配信を最後まで聞かず、画面を閉じる。自分の名前はどこにも残らない。

番組の履歴には投稿者名の代わりに、朗読された時刻だけが残った。芦田は一時四十三分という数字を見て、あの数分が誰の所有物でもなくなったことに安堵した。

それでよかった。名前を呼ばれなくても、今夜の四角い灯りは確かにあった。芦田は台所まで歩き、スイッチを消した。暗い部屋へ戻る足取りは、一人でも迷わなかった。