名札を伏せる夜
瑞帆が店長昇格の返事を求められたのは、閉店後の厨房だった。
昇格すれば、秋から新店舗を任される。開店準備の三か月は、午前様が続く。真尋との式は、その真ん中の日曜日に決まっていた。
エリアマネージャーは「式の一日くらい休める」と言った。真尋も「準備は僕が多めにやる」と言った。どちらも善意だったが、瑞帆には分かっていた。店長を受ければ、式の日だけ体を空けても、心は厨房に残る。式を優先すれば、新店舗の名札は別の人へ渡る。
ステンレス台の上に、二枚の名札が置かれている。今の〈副店長・瑞帆〉と、まだ保護シールのついた〈店長・瑞帆〉。新しい名札は、照明を強く反射した。
真尋から写真が届いた。二人分の席札の試作品だった。瑞帆の名前の横に、小さなローズマリーが描かれている。
〈これでどう?〉
マネージャーからもメッセージが来た。
〈店長名札、明日から使えます〉
二つの名前は同じなのに、呼ばれる場所が違った。
新店舗の厨房図には、瑞帆が提案した動線が採用されている。式の進行表には、瑞帆が苦手な挨拶の時間が赤く囲われている。得意な場所を離れ、不得意な一日へ行くことも、選択には含まれていた。
瑞帆は仕事が好きだった。忙しさに酔っているだけではない。客の皿が空になる瞬間も、後輩の包丁が速くなる瞬間も好きだった。だからこそ、「結婚があるので」と昇格を断れば、自分の選択を真尋のせいにしてしまう気がした。
冷蔵庫のモーターが止まり、厨房が急に静かになった。断る声だけが、自分のものとして残った。
瑞帆はマネージャーへ電話した。
「今回は、受けません」
「次がいつあるか分からないよ」
「分かっています。私が、この秋を式に使います」
言い切ると、店長の名札が急に重く見えた。
電話のあと、保護シールを剥がさず封筒へ戻した。副店長の名札を胸から外し、ステンレス台へ伏せる。肩書きのない自分で、真尋へ〈席札、そのままでお願いします〉と返した。
翌朝も厨房は始まる。昇格を断った人として働く朝を、瑞帆は自分で迎えることにした。