土瓶の蓋をずらして
宇賀神晴紀は、祖父の一周忌へ行かない理由を三つ用意していた。
月曜締切の仕事。新幹線代。親戚に会う気疲れ。
どれも嘘ではない。けれど本当の理由は、葬儀に間に合わなかったことだった。去年、障害対応の責任者だった晴紀は、家族からの電話を二度切った。到着したのは火葬のあとで、母は「仕事なら仕方ない」と言った。その言葉が、今も許しではなく請求書のように残っている。
十月の夜、晴紀は会社帰りに一人で居酒屋へ寄った。店主が「松茸、今週までです」と土瓶を火から下ろす。
小さな蓋の隙間から、透明な湯気が細く上がった。中では出汁がことりと揺れ、松茸の乾いた森の香りが、蓋をしたままでも漂う。酢橘を指で押すと、皮から青い油が弾けた。
晴紀は蓋を取らず、しばらく眺めていた。
「冷めますよ」
店主が短く言った。
晴紀は蓋をずらした。閉じ込められていた香りが一度に顔へ来た。猪口へ出汁を注ぐと、淡い琥珀色の中に湯気が渦を巻く。口に含めば、塩気より先に香りが鼻へ抜け、あとから鶏と昆布の温かさが広がった。
家族に謝れば、去年が変わるわけではない。法事へ出ても、祖父に会えるわけでもない。それでも、行かない理由を増やすほど、祖父のことを思い出す場所まで閉じてしまう気がした。
晴紀は日曜朝の新幹線を予約した。帰りは昼過ぎ。備考も決意表明もつけず、母へ送る。
〈一周忌、午前だけだけど行く。駅からどう行けばいい?〉
返信はすぐには来なかった。親戚に何を言われるか分からない。母が「無理しなくていい」と返すかもしれない。
予約番号を母へ送ったあと、晴紀は法事で何を言うか考えた。立派な謝罪は浮かばない。まず仏壇の前へ座り、遅れたことを一度だけ口にすると、メモへ短く残した。
晴紀は土瓶の中の松茸を箸で取り出した。薄い身はしゃきりと鳴り、噛むほどに香りが弱くなった。最後の出汁へ酢橘を一滴落とすと、温かな湯気の中に、祖父の庭で嗅いだ秋の匂いがほんの少し戻った。