声なき詠唱
ノクス・エイルは、呪文を声にしない。
正確には、声にできない。幼いころの傷で喉が震えず、能力測定では【詠唱音量:0】と表示された。
「魔術師ではなく置物ね」
カサンドラ・ベルムは、彼の席へ無音の札を貼った。自分の歌声こそ学院随一だと信じている。
公開測定の日、彼女はノクスの無能を証明するため、講堂全体へ沈黙結界を張る案を出した。音を奪われれば、声のないふりをした怠け者は何もできない。教師たちも面白がって許可した。
結界が閉じる。
カサンドラの唇が動く。だが音はなく、炎も生まれない。ほかの生徒の杖も沈黙した。講堂には、衣擦れさえ届かない。
ノクスは静かに立った。
胸の前で指を組み、息を吐く。彼の呪文は声ではなく、体内を巡る魔力の脈で刻まれていた。喉を通さないから、沈黙は何も奪えない。
床に光の文字が広がる。柱を登り、天井で星座を結び、沈黙結界そのものを内側からほどいた。
音が戻った瞬間、カサンドラの叫びだけが不格好に響いた。
沈黙結界の中で、ノクスは自分の術だけを完成させたのではなかった。光の文字を各生徒の足元へ送り、指の動きで短い詠唱を教えていた。声を失った者たちは、その合図に従って小さな防壁を作り、暴走する魔力から身を守った。
音が戻ると、生徒たちは一斉にノクスを見る。置物と呼ばれた彼だけが、誰も声を出せない状況を想定し、別の伝え方を身につけていた。
カサンドラは、沈黙結界を解けば自分の歌が勝ると主張した。だが測定官は首を振る。
「災害や敵が、君の得意な条件を用意してくれるとは限らない」
ノクスは喉の傷へ触れ、もう隠さなかった。欠けたものを補うために磨いた術が、学院の誰よりも無駄なく、環境にも奪われない形になっていた。
壁に貼られた無音の札は、侮辱ではなく新しい術式名として金色に変わる。
新式水晶は、声の大きさではなく、使った魔力がどれほど術へ変わったかを測り直す。ノクスの周囲に、無駄な光は少しも漏れていなかった。
【魔力変換効率:99%】
教師長は無音の札をノクスの席から剥がし、カサンドラの譜面台へ貼り直した。
【詠唱科・教導配置更新】
無詠唱教導生:ノクス・エイル
発声基礎生:カサンドラ・ベルム