契約書の外側
八木橋迅は、最後の練習が終わるまで契約書を見せないつもりだった。
けれど真壁澪奈は、アンプの上から白い封筒を見つけた。
「二人分しかない」
レコード会社が契約を提示したのは、ボーカルの迅とドラマーの唐沢伊織だけだった。ベースの澪奈は「商品イメージと合わない」という理由で外された。
「断るって言ったよね」と伊織。
「言った」
「じゃあ、これは?」
迅は黙った。封筒の中の一部には、すでに署名してある。
狭い部室で、蛍光灯の音だけが鳴った。三人は卒業後も続けると決め、就職活動さえ後回しにしてきた。ところが未来は、二人分の署名欄で届いた。
「俺、受ける」と迅が言う。
「澪奈を切って?」
「ソロ名義になる。伊織も断っていい」
「選ばせてるふりするなよ」
澪奈はベースの音量をゼロにした。
「私、四月から修理工房に入る」
「初めて聞いた」
「落ちたときのために受けてた。落ちたの、私だけだったけど」
伊織は法科大学院への進学を告げた。親に勧められて出願し、昨日合格通知が来たという。
「音楽を諦める理由が、やっと向こうから来た」
「俺が悪いみたいに言うな」
「悪いよ。でも悪いから売れないとは限らない」
迅の顔が歪んだ。澪奈は止めなかった。
最後の曲をやろうと言ったのは、澪奈だった。契約会社が最も評価した曲。ベースのイントロから始まり、迅の声が入り、伊織のドラムが追う。
三人は一度も目を合わせなかった。それでも演奏は、これまででいちばん正確だった。別れを決めた人間だけが持つ集中だった。
曲が終わると、迅は契約書を鞄へ入れた。伊織はスティックを二本そろえて床に置く。澪奈はベースをケースへ収めず、迅へ差し出した。
「これ、直してから返す。デビュー曲で使えば」
「いらない」
「あなたの曲の音だったでしょ」
迅は受け取らなかった。
三人が出たあと、部室には契約書から外されたベースと、法学書の間に挟まれたドラムスティックが残った。
迅の署名だけが、白い封筒の中で先に未来へ行っていた。