女将の名札

籾山多喜が朝食膳を下げていると、夫の恭介が玄関へ派手なスーツケースを運び込んだ。

隣には、旅館を紹介する動画で有名な女性がいる。

「今日から彼女に広報を任せる。いずれ女将も交代だ」

恭介は、帳場に座る母の寿美江へ向かって言った。

「多喜とは離婚する。跡取りは俺なんだから、旅館のことは俺が決める」

女性はカメラを回し、古い暖簾を背景に微笑んだ。

「新しい女将として頑張ります」

多喜は膳を置き、寿美江へ尋ねた。

「お義母さん、お茶をお持ちしましょうか」

「その前に、社員を集めておくれ」

広間へ板前、仲居、清掃係が集まった。恭介は自分の就任挨拶だと思い、上座へ座る。

寿美江は司法書士を呼び入れた。

「先月、旅館を運営する会社の株を多喜さんへ譲った。私の六十五パーセント全部だよ」

恭介が立ち上がる。

「聞いてないぞ。俺は実の息子だ」

「株は相続じゃない。私が生きているうちに、任せられる人へ譲った」

司法書士が株主名簿と贈与契約書を示す。多喜は、残りの株を持つ従業員持株会からも委任を受けていた。

恭介は女性へ向いた。

「形だけだ。旅館の顔は俺だ。予約客は俺の人脈で来てる」

番頭が予約台帳を開いた。

「今月の新規予約の八割は、多喜さんが始めた食物アレルギー対応プランからです」

動画の女性がカメラを下げた。

「経営者になるって言ったじゃない」

「なるはずだったんだ」

寿美江はため息をついた。

「なるはず、で客室の合鍵を渡したのかい。離婚しているとも言ったそうだね」

女性の視線が恭介から外れた。

多喜は新しい組織表を壁へ掛けた。代表取締役兼女将、籾山多喜。恭介の名はどこにもない。

「従業員用の住み込み部屋は、今月末で明け渡してください。正式な通知です」

恭介が帳場の奥へ入ろうとすると、番頭が止めた。

「本日から、金庫と事務室の鍵を変更しております」

寿美江は、長年自分が着けていた木札を多喜の胸へ留めた。

墨で書かれた「女将」の二文字が、恭介の目の前で揺れた。