定期券の外へ
宇佐見和花は、毎週土曜の朝、実家へ帰った。母に頼まれたわけではない。けれど金曜になると〈明日は何時の電車?〉とメッセージが来る。父の通院、冷蔵庫の買い足し、町内会の印刷。どれも和花がいなければ困るほどではないのに、帰らない理由を言う方が難しかった。
二十七歳で借りた部屋は、平日の寝床になっていた。土曜の夕方に光がどう入るのか、和花はまだ知らない。
実家で任される用事は、どれも小さい。だから断るほどではないと思ってきた。小さい用事を一つずつ引き受けるうち、自分の部屋のカーテンを洗うことも、近所の店へ行くことも、ずっと後回しになった。親孝行をやめたいのではなく、自分の週末にも名前をつけたかった。
ある金曜、駅の券売機へ交通系カードを置くと、画面が路線図ではなく白い文字を映した。
〈帰る場所と、戻る場所は同じですか〉
和花が取消ボタンを押しても消えない。
〈いつもの駅より、一つ先まで買ってください〉
「定期だから、切符いらないし」
そう言うと、硬貨投入口が一度だけ咳のような音を立てた。和花は百五十円を入れ、実家の最寄りより一駅先の切符を買った。
翌朝、母には何も言えないまま電車へ乗った。最寄り駅が近づく。ホームに母はいない。それでも、降りなければ見つかるような緊張が背中を走った。改札の向こうに母が待っているわけではないのに、座っていること自体が秘密のようだった。和花は膝の上の手をほどき、窓の外を見た。
ドアが開き、いつもの町の匂いが入る。和花は座席の縁を握ったまま動かなかった。扉が閉じ、見慣れた屋根が後ろへ流れる。
一駅先には、小さな川と、古い映画館があった。降りたホームでスマートフォンが震える。〈今どこ?〉と母。
和花は長い説明を打った。疲れていること。自分の部屋で週末を過ごしたいこと。父の買い物は日曜の午後に届けられること。書き終えてから、全部消した。
〈今週は帰りません。日曜に電話します〉
送信する。切符を改札へ入れると、薄い紙は戻ってこなかった。
和花は実家側のホームへ渡らず、川の見える出口へ歩き出した。