客間に置かれた鞄

涼絵が実家の客間を開けると、母の旅行鞄が置かれていた。

中にはパジャマ、薬、下着、写真立て。衣類は一か月分ほどある。

「これ、何?」

台所から母が答えた。「退院したら、あなたのところへ行く準備よ」

涼絵の部屋へ来る話は一度もしていない。母は膝の手術後、一人で実家の階段を上れない。父は「女同士のほうが気楽だ」と言い、兄は既読をつけない。誰も決めないうちに、鞄だけが涼絵の家へ向かう形になっていた。

鞄の外ポケットには、涼絵のマンションの合鍵を作るための鍵番号までメモされていた。母は「迷惑をかけないよう自分で出入りする」と言うつもりだったのだろう。だが、自由に入れることは、迷惑をなくすことではない。

「うちには泊められない」

母の顔が強張る。「施設へ入れたいの?」

「回復期の短期入所を使って、その間に一階で暮らせるようにする。私は週二回行く」

「娘の家にも置いてもらえないのね」

涼絵は鞄の蓋を閉じず、中の写真立てを手に取った。幼い涼絵が母の膝に座っている。母は昔から、「あなただけは私の味方」と言った。その一枚が、今も荷物の一番上に置かれている。

「味方でいることと、一緒に住むことは同じじゃない」

母は何も言わなかった。

涼絵は鞄から薬だけを出し、入院用の透明袋へ移した。パジャマは三組に減らし、残りは箪笥へ戻す。写真立ては客間の棚へ立てた。

その場で病院の相談員へ電話し、短期入所の空きを確認した。父には一階の和室を片づける担当、兄には手すり工事の立ち会いを頼むメッセージを送った。

母が小さく聞く。「入所の日、来てくれる?」

「行く。退所の日も迎えに行く。でも、私の部屋へは運ばない」

母はしばらく鞄を見つめ、「パジャマは青いほうを入れて」と言った。

涼絵は青を一組加えた。和解の言葉ではなかったが、母が行き先を鞄の中身で受け入れ始めた合図に思えた。

ファスナーを閉じる。鞄は涼絵の家ではなく、母が歩けるようになるまでの場所へ向かう。持つ手は一つでも、行き先はもう一人で決めたものではなかった。