山頂ではなく四合目
上牧深雪は、五十五歳になった記念に一人で山へ登ることにした。
標高は高くない。初心者向けで、往復三時間。靴も雨具もそろえ、前夜には山頂で食べるおにぎりを二つ握った。
朝の登山口は静かだった。
杉林へ入ると、湿った土と葉の匂いがした。深雪は息が上がらない速さで歩き、標識ごとに水を飲んだ。
三合目を過ぎたころ、霧が出た。
道は見えるが、上へ行くほど白くなる。天気予報では晴れだったので、深雪はしばらく迷った。
「せっかく来たんだから」
声に出すと、その言葉が急に重く聞こえた。
四合目には、小さな東屋があった。
深雪はそこでザックを下ろした。霧は木々の間を流れ、屋根から雫が落ちる。
山頂まで行けないほどではない。けれど景色は見えず、足元も少し滑る。誰かに証明する登山ではないのに、引き返すことだけが失敗のように思えた。
携帯を出しても圏外だった。
深雪は地図を畳み、まず昼食にした。
小さな保温瓶へ入れてきた味噌汁を注ぐ。豆腐と若布だけの汁から、味噌の温かな香りが立った。おにぎりには梅を入れてある。
霧の中で食べると、米の一粒ずつがはっきり甘かった。
食べ終えるころ、深雪は山頂へ行かないと決めた。
決めた瞬間、東屋の周りの景色がよく見えた。濡れた苔、杉の根、屋根の端にできた水滴。山頂の眺望ではないが、ここにしかない四合目の白い午後だった。
下り道はゆっくり歩いた。
途中で霧が薄くなり、木々の隙間から麓の町が少し見えた。山頂へ行けば見下ろしたはずの景色を、途中から横に眺める。
登山口へ戻ると、売店で甘酒を買った。
生姜の入った湯気が顔へ当たり、体が内側からほどけた。
記念写真は山頂ではなく、登山口の古い標識の前で一枚だけ撮った。
家に帰り、残ったおにぎりを夕飯に食べた。
靴底には四合目の泥が薄く残り、洗う前にしばらく玄関で眺めた。
ザックから杉と霧の匂いが上がる。
深雪は手帳へ〈四合目まで〉ではなく、〈四合目で味噌汁〉と書いた。到達しなかった場所より、立ち止まった場所の温度を覚えていたかった。