左ブレーキの遊び
御厨鉄平は、養父の彬が使う車椅子の左ブレーキを直していた。
工場の事故で足を骨折し、退院まで一か月。病院の貸出品は左だけレバーが深く、止めても車輪が少し動く。
「看護師に言えば交換してくれる」
「待つのが嫌だ」
「昔からそれで事故るんだよ」
鉄平は工具を広げた。彬は自動車整備工場を営み、鉄平を中学から育てた。高校卒業後、当然のように工場へ入れられたことが嫌で、鉄平は三年で辞めた。彬は「根性なし」と言い、鉄平は別の町で設備工になった。
ブレーキのボルトを緩め、タイヤとの隙間を測る。彬は床頭台から古いノギスを出した。工場で鉄平が最初に使った道具で、目盛りの裏には彼が刻んだ傷が残っている。退職後も、彬は捨てずに工具箱へ入れていた。彬が右側を見本にしろと言う。
「分かってる」
「レンチの角度が悪い」
「口まで骨折すればよかったな」
「飯が食えん」
言い合いながら調整した。レバーを倒すたび、車輪は少しずつ止まるようになる。
最後に彬が体重をかけて試した。車椅子は動かなかった。
「締めすぎだ。戻すとき重い」
「止まらないよりいい」
「使う人間に合わせろ。正しさに合わせるな」
鉄平の手が止まった。工場を辞めた夜、言ってほしかった言葉だった。
「今、それ言う?」
「今、分かった」
謝罪には聞こえなかった。彬は謝るのが下手で、鉄平も許すのが下手だ。
半回転だけボルトを戻す。鉄平は病室の短い廊下を何度も押し、急停止と旋回を試した。彬は患者ではなく検査員の顔で、右へ一ミリ、左へ少しと注文を出した。ブレーキは片手で掛かり、坂でも止まった。彬が何度もレバーを動かし、満足そうに鼻を鳴らす。
看護師が面会終了を告げた。鉄平は工具を片づけたが、短いスパナ一本を床頭台の引き出しへ残した。
「病院で何に使う」
「退院後、玄関の手すり付ける」
「頼んでない」
「俺が転ばれたくない」
彬は返事をせず、引き出しを閉めた。
鉄平は帰り際、病室前の面会簿に次回の日付を書いた。住所欄は空けず、彬の家の住所を記した。工場を辞めて以来、一度も書かなかった場所だった。