左手で押す国璽
文官アゼラは左利きだった。
旧王国では不吉として右手を縛られ、文字を矯正された。だから皇宮でも人目があると右手へ持ち替えてしまう。
皇帝ロドルムは最初の一日で気づいた。
「左で書け」
翌朝から、彼女の机は窓の右側へ移され、左肘が隣人に当たらない配置になった。インク壺も左、書類押さえは右。敵国の降伏文書を三行で退ける皇帝が、アゼラの机だけは細かく整える。
「書きやすいか」
「はい」
「なら、隠すな」
ある日、帝国法典の改訂式が開かれた。アゼラが起草した条文なのに、宰相は最後の署名を男性官僚へ任せようとする。
「公衆の前で左手を使う者に国璽を扱わせるのは、縁起が悪い」
アゼラは唇を噛んだ。
「では、私の名を起草者から外してください」
宰相は笑う。
「名誉を捨てる必要はない。右手で一度押せば済む」
「右手では押しません」
全官僚が皇帝の怒りを恐れて静まった。
ロドルムは国璽を持ち上げる。
「誰が彼女に右手を使えと命じた」
「古い慣例でございます」
「今日から古い違法だ」
皇帝は国璽台をアゼラの左側へ移した。
「押すか」
「私の条文として記録されるなら」
「当然だ」
宰相が抗議する。
「国民が不吉と騒ぎます」
「騒いだ者には法典を読ませろ。読めぬなら黙らせろ」
アゼラは左手で柄を握り、法典へ印を押した。震えはなかった。
ロドルムは、その印の隣へ自分の署名を加える。
印を見た群衆から、わずかなざわめきが起きた。ロドルムは兵に黙らせる代わりに、アゼラへ法典の第一条を読むか尋ねる。
「読みたいです」
彼女は左手で頁を押さえ、自分の声で条文を読み上げた。皇帝は隣で一言も補わず、彼女の功績を自分の恩寵として語らなかった。読み終えたとき、最初に拍手したのは恐れられる皇帝だった。
その拍手は命令ではなかった。続くかどうかも、集まった人々自身へ委ねられた。やがて一人、また一人と手を打つ音が広がった。
「記録せよ。帝国法典の起草者はアゼラ。彼女がどちらの手を使うかは、皇帝にも決定権がない」