左手で結ぶ契約
書記官テオルは左利きだった。
人間の宮廷では不吉だとされ、幼い頃から右手で書かされた。文字が震えるたび、役立たずと叩かれた。
魔王イグニスの執務室では、インク壺が必ず左側に置かれる。
「また侍従が右へ置いたのか」
魔王は眉を寄せ、自分で位置を直した。羽根ペンも左手用に削られている。
「そこまでしていただかなくても」
「おまえの字は左のほうが速く、美しい」
最強の魔王は、反逆文書の誤字一つさえ見逃さない。だがテオルの右手の歪んだ字を笑ったことは一度もなかった。
その日、王位継承契約の清書が行われた。
契約には、テオルを魔王専属の「永久書記」として魂まで拘束する条項があった。宰相は当然のように説明する。
「陛下が最も寵愛する書記だ。永くお側に仕えるのは栄誉だろう」
テオルの左手が止まった。
「この条項は書けません」
広間中の視線が集まる。
「陛下の命令に逆らうのか」
「陛下の命令ではありません。あなた方が加えた条項です」
宰相はイグニスへ向いた。
「ですが陛下も、彼を失いたくはありますまい」
イグニスは答えず、テオルへ尋ねた。
「永久でなければ、どの契約なら書ける」
「一年ごとに更新を。辞めたいときは、理由なしで辞められるものを」
「そうしろ」
「陛下!」と宰相が叫ぶ。「秘匿情報を持つ者を自由にするのですか」
「自由な者が余のそばに残るから、意味がある」
宰相はテオルの右手へペンを押しつけようとした。
イグニスの炎がペンだけを灰にする。
「彼の手を選ぶな」
魔王は契約台を回転させ、テオルが左手で書きやすい向きへ整えた。
テオルは一年契約を書き上げ、最後に自分の名を左手で署名する。流れるような字だった。
イグニスも隣へ署名し、魂拘束の印章を砕いた。
「永久書記の制度を廃止する。テオルは左手で書き、いつでも辞められる」
魔王は全官僚へ冷然と告げた。
「余が彼を失いたくないことと、彼を失えないよう縛ることは、同じではない」