巻き戻しの先

真壁乃衣が音響店ミモザへ持ち込んだカセットテープには、祖母の字で「夏の練習」とだけ書かれていた。祖母は若いころからこの店へ通い、合唱の録音や、家族へ送る声の手紙を何本も作っていたという。

遺品の箱から見つけたその一本だけは、途中でテープが絡み、再生できなかった。乃衣は修理を頼みながら、祖母の最後の言葉が入っているのではないかと期待していた。葬儀以来、姉とは連絡を取っていない。介護をどちらが多く担ったかで言い争い、互いに謝る機会を失った。祖母の声に仲直りを命じてもらえたら、自分から折れずに済むと思っていた。祖母の遺志なら、姉も拒めないはずだという卑怯な期待もあった。

店主は透明な窓から傷んだ部分を確かめ、鉛筆をリールへ差し込んでゆっくり回した。よれたテープを切り、ほんの数センチだけつなぎ直す。作業台の小さな再生機へ入れると、古いピアノ伴奏が鳴った。

祖母は同じ一節を何度も歌い、音を外すたび自分で笑っていた。途中で咳をし、誰かに水を頼み、また最初から歌う。遺言も、家族への願いもない。最後は伴奏より早く歌い終え、「あら、また」と笑ったところで録音が切れた。

乃衣は肩透かしを感じ、それから少し可笑しくなった。祖母は死者になる前、ただ練習に失敗する人だった。姉と仲直りさせるために、未来へ言葉を残してはいなかった。

店主はテープを最初まで巻き戻そうとしたが、途中で手を止めた。祖母の笑い声が始まる位置をカウンター表示で確かめ、そこへ合わせる。ケースの古い「A面」ラベルを剥がさず、横に小さく「再生はここから」と記した。

会計後、店主はテープを透明袋へ入れた。リボンも説明書も添えず、再生方向だけを上にして渡した。

乃衣は店を出る前、姉の番号を開いた。何と話すかは決めていない。祖母の声を理由にする文章も消した。

呼出音が一度鳴ったところで、切らずに耳へ当てた。カセットの中では、巻き戻されなかった笑い声が、次に再生される位置で待っていた。