市長を辞めた演説

百目鬼万里花は、市長選三期目の演説中、壇上にもう一人の自分を見た。

政策AIが並行世界の行政結果を比較する公開実験を始めたのだ。向こうの万里花は、就任一年で巨大防潮堤の建設に反対し、市長を辞めた。その後、市民運動の象徴になっていた。

こちらの万里花は建設を承認した。中心街は大洪水から守られたが、堤外となった古い漁師町は移転させられた。

「私は町を売らなかった」と向こうが言った。

「あなたの世界では洪水で百二十人死んだ」

巨大画面に、二つの結果が並んだ。こちらには水没した故郷を恨む住民。向こうには、守られなかった遺族。支持者たちは都合のいい映像だけを切り抜き、互いを英雄と人殺しに分け始めた。

万里花は演説原稿を握りつぶした。

「辞めたあなたは、責任から逃げた」

「残ったあなたは、責任を数字に隠した」

向こうの万里花も声を震わせていた。辞職後、毎年慰霊祭で罵倒されるという。正義を貫いた自分という物語がなければ、眠れない夜がある。

公開実験の最後、政策AIが尋ねた。

〈最適な選択を一つ、選挙民へ提示してください〉

二人は答えなかった。

こちらの万里花はマイクを取り、初めて堤外移転の決裁過程をすべて公開すると宣言した。補償の遅れ、企業献金、迷った末に切り捨てた家々の数。演説会場から拍手が消えた。

選挙には負けた。

退任の日、移転先の仮設商店街で、一人の老漁師が彼女へ魚箱を投げつけた。万里花は避けず、謝った。許されなかった。

その夜、別世界の万里花から最後の通信が来た。

〈こちらも、辞職を美談にする記念館を止めた〉

万里花は笑った。市長を続けた自分も、辞めた自分も、正解にはなれない。

翌朝から彼女は、移転記録を聞き取る小さな事務所で働き始めた。政治家ではなくなっても、選んだ結果から辞職することだけはできなかった。

聞き取り事務所へ、魚箱を投げた老漁師が古い港の写真を持ってきた。「許したわけじゃない。役所より先に、これを残せ」。万里花は礼を言わず、撮影場所と失われた家の名を尋ねた。責任は和解ではなく、記録から始まることもあった。