平らな階段

折登佳純は、事故で平衡感覚を損ねてから建築検査員になった。耳の奥の端末が床の傾きや段差を補正し、どんな場所でも水平に歩ける。自分のような人が安全に暮らせる建物を増やすことが、第二の人生になった。

再開発住宅の完成検査で、佳純は十二階まで階段を上った。足元は安定し、手すりも滑らかに感じた。測定AIも基準内を示し、彼女は合格印を押した。

入居一週間後、子どもが階段から落ちた。踏面の高さはばらばらで、手すりには細い亀裂があった。佳純が現場へ戻り端末を切ると、床は船のように傾き、金属は指へ刺さった。施工会社が検査時間だけ感覚補正網を乗っ取り、危険な形状を水平と滑らかさに変えていたのだ。

測定値まで偽装されていたが、最終署名は佳純のものだった。会社は被害者だと言い、同僚は復職を勧めた。けれど子どもの母親に会うと、「あなたは何を感じたんですか」と聞かれた。佳純は「安全だと感じました」としか答えられなかった。その言葉がいちばん無責任に思えた。

事故調査では、佳純の障害が争点にされた。施工会社の弁護士は、平衡端末を使う検査員へ重要案件を任せた行政にも責任があると主張した。佳純は、自分の身体が欠陥の原因のように語られることへ怒った。騙されたのは障害があったからではない。感覚を補う仕組みが、感覚を奪う入口にもなると誰も想定しなかったからだ。

彼女は職を辞め、端末も外した。町は急に不安定になった。駅の床は傾き、人の流れに押され、数十歩で吐き気がした。補正なしでは一人で歩けず、杖を持つ自分を敗北のように感じた。

それでも佳純は、昔ながらの水準器と金属球を携え、欠陥住宅の相談を受け始めた。床へ球を置けば、重力は広告を見ない。手すりは体重をかけ、音を聞き、傷を指で確かめた。検査には以前の三倍かかった。

事故の子どもが退院した日、佳純は補修された階段を一緒に上った。二人とも手すりを握り、一段ずつ止まった。

「今度は平ら?」

「少しずれてる。でも、ずれてるって分かる」

佳純は、それを安全と呼べる気がした。