弦が震えるあいだ

手を怪我した演奏家は、昔のようにヴァイオリンを弾けなくなった。

指は動く。

けれど速い音では遅れ、細かな震えが残る。

医師は「日常生活には問題ない」と言った。

演奏だけが日常ではないらしい。

楽器修理店で、翻訳用の松脂を渡された。

弓へ塗ると、弦が震えている間だけ楽器の声が聞こえるという。

最初の一音。

ヴァイオリンは言った。

「強い」

演奏家は力を抜いた。

「まだ強い」

「前はこれで鳴った」

「前は、前の手」

腹が立った。

楽器は長年、自分の手に合わせてきたはずだ。

怪我をした今になって、他人のようなことを言う。

昔の曲を弾く。

速い箇所で指がもつれた。

「遅い?」

尋ねると、

「苦しい」

と楽器は答えた。

自分の失敗を責められた気がして、弓を置いた。

翌日、教室へ来た幼い生徒が、楽器を見て弾きたがった。

まだ開放弦しか鳴らせない。

演奏家は松脂を塗った弓を渡した。

子どもが一本の弦をゆっくり引く。

「広い」

ヴァイオリンの声がした。

もう一度。

「朝みたい」

演奏家は驚いた。

楽器は上手下手を話しているのではない。

今、木と弦に起きている感覚を、そのまま言っているだけだった。

演奏家は自分で弓を持ち、速い曲をやめた。

一音を長く鳴らす。

震える指のせいで、音も細かく揺れた。

「雨」

ヴァイオリンが言う。

次の音は、

「窓」

その次は、

「帰る鳥」

以前なら不安定と直した音が、楽器には別の景色として聞こえていた。

演奏家は、怪我の前の演奏へ戻ることをやめた。

速い曲を弾けない事実は変わらない。

仕事も減った。

代わりに、長い音と沈黙を使った短い曲を作った。

初演の日、客席には以前より少ない人しかいなかった。

松脂は使わなかった。

楽器の言葉を、演奏中に聞く必要はもうない。

最後の音が震えながら消える。

拍手の前に、子どもの生徒が小さく言った。

「雨がやんだみたい」

演奏家は笑った。

楽器と同じ言葉ではない。

それでよかった。

元の手へ戻れなかったから、元の音ではない場所へ行けた。

ヴァイオリンが教えたのは弾き方ではなく、変わった手も、まだ世界を震わせられるということだった。