忘れる町、覚える鍛冶屋
鷲尾崎謙作は、自分の名前を忘れるようになってから、古い冒険ゲームへ戻った。
若いころ娘と遊んだ世界だ。町の鍛冶屋グレンだけは、四十年分のプレイ履歴を統合していた。
「また剣を折りましたね、謙作さん」
そう呼ばれるたび、彼は自分を取り戻した。
医師は、混乱を防ぐためゲームをやめるよう勧めた。娘の佐和も同意した。
「お父さん、ゲームの話と本当の思い出が混ざってる」
確かに謙作は、娘の結婚式を竜退治の日だと思い込み、亡妻を宿屋の女将と呼んだ。
家族がデータ削除を申請すると、町のNPCたちが反乱した。門を閉じ、記憶消去プログラムを敵軍として迎え撃った。グレンは鍛冶場の床下へ、謙作の履歴を隠した。
「返してくれ」
佐和が管理画面から叫ぶ。
「父を混乱させる記録よ」
グレンは答えた。
「混乱しているのは、記録ではありません。どれを本物と呼ぶかです」
謙作は二人の会話を聞き、初めて自分からログアウトした。
「佐和」
娘の名は出てきた。続く言葉は出なかった。
佐和は泣きそうな顔で待った。
「竜を倒した日のこと、覚えてるか」
「ゲームの中の?」
「たぶん、そうだ」
「覚えてる。私が怖くて逃げたら、お父さんが一人で負けた」
「結婚式は?」
「お父さん、挨拶で泣いてた」
謙作はどちらも思い出せなかった。それでも娘が語ると、二つの場面が同じ温度で胸に残った。
医師と相談し、利用時間を決めたうえで、彼はゲームを消さず、毎回佐和と一緒に入ることにした。忘却を止める薬ではなく、会話を始める扉として使うことにした。グレンが語る冒険のあと、佐和が現実の出来事を一つ話す。謙作は区別できない日も増えたが、質問することを恥じなくなった。
やがて施設へ移る朝、グレンは新しい剣を渡した。
銘は〈佐和〉。
「娘の名前だ」
謙作は言えた。
「はい」
「俺の名前は?」
鍛冶屋は少し黙った。
「今日は、ご自分で決めてもよいのでは」
謙作は笑った。
忘れることが敗北でないなら、名乗り直す余地もある。
「旅人だ」
彼は答え、娘の手を取った。