恋しさを眠らせる魚
水鏡に棲む銀の魚は、恋しさを食べているあいだだけ、夢の扉を開く。
恋しさを食べ尽くせば扉は閉じ、目覚めた者は向こうの相手を二度と恋しく思わない。
フローネは三年、同じ夢を見ていた。
白い浜辺にアシュが立ち、手招きをしている。船の事故で行方不明になった恋人だ。遺体は見つからず、死者の名簿にも生者の名簿にも載らないままだった。
今夜、占い師から借りた水盆へ銀の魚を放つ。
「会えるのは、恋しさが残っている間だけ」
魚は水面から口を出した。
「戻る道も同じ恋しさでできている。食べ尽くす前に帰れ」
フローネが水へ指を入れると、部屋の床に白い砂が広がった。
夢の浜辺で、アシュは三年前と同じ服を着ていた。濡れてもおらず、傷もない。
「遅かったね」
彼は笑った。
抱きしめると温かい。潮の匂いも、肩の骨の感触も本物だった。
けれど背後の扉では、銀の魚が一口ずつ恋しさを食べている。待ち続けた夜が消えるたび、水面の縁が狭くなった。
「帰る方法を見つけた」
フローネは言った。
「私の名前を呼んで。扉のこちらへ一緒に飛び込めば――」
アシュは首を振った。
「僕は帰れない。船が沈んだ日に、もう終わっている」
「それでも、ここにいる」
「君が恋しがるから、夢が僕の形を作ったんだ」
その言葉が真実か、夢の諦めなのか分からない。
フローネは彼の手を強く握った。ここへ残れば、魚が恋しさを食べ終えたあとも一緒にいられるかもしれない。現実の身体は眠り続けるだろう。
扉の向こうに、彼女の小さな薬草店が見える。
明日の予約札。窓辺で芽を出した種。毎朝パンを届ける隣人。アシュがいなくても積み重なった三年が、部屋の形をして待っていた。
魚が、初めて口づけした日の恋しさを食べた。
アシュの指の温度が少し薄くなる。
「君は帰って」
「帰ったら、あなたに会いたいと思わなくなる」
「それが、帰るってことだよ」
水の扉は肩幅ほどに縮んでいた。
フローネは彼の胸に額をつける。言うべきことは無数にあったのに、恋しさが減るたび、言葉も必要ではなくなっていく。
最後に残ったのは、名前を呼んでほしいという小さな願いだった。
「フローネ」
アシュが応える。
彼女は手を離し、扉へ飛び込んだ。
踵が現実の床へ着くのと、銀の魚が最後の恋しさを飲み込むのは同時だった。
水面が閉じる。
フローネは濡れた掌を見た。
誰かに別れを告げたはずなのに、もう振り返りたいとは思わなかった。