拍手しない観客

新作舞台の公開稽古で、最後まで拍手をしない女性がいた。小比賀景依。黒い帽子を深くかぶり、台本の余白へ赤い線を引いている。

演出家は客席から彼女を見つけた。

「楽しめないなら帰ってください。招待客の空気が悪くなる」

小比賀は舞台上の台詞を一つ指した。

「主人公は、その言葉を言いません」

「原作を読んだだけの人は皆そう言う。舞台には舞台の正解がある」

今回の作品は、二十年前に一冊だけ刊行された戯曲が原作だった。

原作の最後では、主人公は恋人を選ばず町を出る。だが演出家は抱擁と結婚の台詞を足し、主演俳優が疑問を口にすると「観客は分かりやすい幸福を買う」と退けた。小比賀は俳優に、初版本にしかない舞台指示を一つ伝えた。俳優がその通り窓へ背を向けると、場面の意味が鮮やかに変わり、稽古場の全員が息をのんだ。

演出家だけが、偶然だと言い張った。小比賀は初演で使われた呼吸の間、削除された三行、作者しか知らない人物の旧名まで挙げた。それでも彼は「熱心なファン」で片づけた。作者は筆名だけを残し、表舞台から消えている。演出家は結末を恋愛劇に変え、記者には『眠っていた名作を救った』と語っていた。

小比賀は静かに尋ねた。

「上演許諾書の最終稿を確認しましたか」

「制作の話に素人が入るな」

演出家はスタッフに帽子の女性を外へ出すよう命じた。私は制作助手として止めようとしたが、プロデューサーから黙るよう目配せされた。

そのとき舞台監督の端末に、権利管理会社から緊急メールが届いた。上演許諾の署名が保留されており、このままでは初日を開けられない。

演出家は青ざめ、原作者の代理人を今すぐ呼べと怒鳴った。

客席後方の扉が開き、出版社社長と弁護士が入ってくる。二人は黒い帽子の女性の両脇に立った。

弁護士が原本を掲げた。

「筆名・冬窓の正体であり、著作権者本人、小比賀景依先生です。改変の許可権も上演停止権も先生にあります」

小比賀は台本の赤い線を演出家へ見せた。

「この台詞を消すか、この舞台を消すか。選ぶのは今です」