振込先の一文字
八百四十万円の振込先に、一文字だけ違う名前があった。
食品メーカーの月末の財務室。早川碧が確認する最後の振込一覧には、包装資材会社への支払いが載っている。処理を終えたら、机の退職届を提出する予定だった。口座変更の依頼メールも添付され、部長の承認印まで押されていた。
碧は受取人名の一文字で手を止めた。通常は〈トウヨウホウソウ〉。変更先は〈トウヨウホウソー〉。銀行の名義照合なら通る程度の違いだ。送信元のアドレスも、会社名の間に見慣れないハイフンが一本ある。
月末の財務室では、プリンターが振込控えを吐き続けていた。取引先は十二年来の相手で、だからこそ誰も疑っていなかった。碧が退職を決めたのは、確認のために止まるたび「仕事が遅い」と記録される一方、事故を防いだ件数はどこにも数えられなかったからだ。
「部長承認済み。締切まで十分しかない」
先輩は振込ボタンを指した。
碧は依頼メールへ返信せず、登録済みの代表番号から資材会社へ電話した。担当者は口座変更を否定した。部長の印影は、以前送ったPDFから切り抜かれたものだった。
「一覧を止めます」
「他の百件まで遅れるぞ」
碧は不審な一件だけを保留へ移し、残りを再集計した。変更依頼は、メール内の番号ではなく登録済み番号へ折り返す。二人で名義を読み上げる。その手順を支払画面の直前へ追加する。
新人の楓が、印刷した依頼書を抱えたまま言った。
「印鑑があったので、本物だと思いました」
「印鑑は答えじゃなくて、確認を始める合図。急がされたときほど、相手が用意した連絡先を使わないで」
百件の振込は締切の一分前に完了した。八百四十万円だけが、保留欄に残った。
部長は、取引先へは〈振込システムの不具合で遅れた〉と伝えるよう言った。
碧は不正メールを証拠保全し、情報管理部へ正式に報告した。楓には新しい確認表を渡す。長い取引を守るためにも、攻撃をなかったことにはできない。
説明文を修正してから退職届を提出し、子ども食堂を運営する団体の経理職へ、内定承諾の返信を送った。
次に守りたい数字を、自分で選んだ。