放送の外の一曲
香澄が休憩室へ入ると、壁の向こうで低いベース音が鳴っていた。
深夜ラジオの収録スタジオ。オンエア中の部屋から漏れた音が、防音壁を通るうちに言葉を失い、一定の振動だけになっている。ラックの冷却ファンが回り、空調の風が紙ナプキンの端を揺らしていた。
午前一時四十八分。赤い「放送中」の灯りは廊下で点いたままだった。
香澄はマグカップへ湯を入れた。ティーバッグが水面で回り、茶色が薄く広がる。
番組では、眠れないリスナーからのメッセージを読む。失恋、仕事、家族、理由のない寂しさ。パーソナリティは名前を呼び、「聴いています」と言う。香澄はその後ろで時間を測り、音量を整え、曲を入れる。
自分のメッセージを送ったことはない。
読む側の近くにいると、言葉にする前の気持ちまで仕事の材料になりそうだった。
机の上には、読まれなかったメッセージの束が伏せて置かれていた。時間の都合、内容の重なり、放送に向かない長さ。採用されなくても、誰かが夜中に文字を打ち、送信を押した事実は消えない。香澄は内容を見ず、ずれた紙の角だけを揃えた。届いたもの全部に声が返らなくても、受け取る場所は確かにある。
壁の向こうで曲が変わった。今度はピアノの音が数粒だけ届く。旋律は分からない。ただ、同じ間隔で高い音が落ちてくる。
休憩室のドアが開き、別スタジオの技術スタッフが空の紙コップを持って入った。香澄を見ると、指を唇へ当て、声を出さずに会釈した。放送中の癖なのだろう。
香澄も黙って会釈を返す。
相手はカップを捨て、冷蔵庫から水を取り、また廊下へ消えた。会話は一つもなかった。
それでも、休憩室に残った椅子が少しだけ揺れていた。
ファンが回る。
空調が回る。
ティーバッグが湯の中でゆっくり回る。
香澄はピアノの高い音に合わせ、机を指で一度だけ叩いた。誰にも聞こえないほど小さな拍だった。
番組へ送られない夜も、放送に乗らない音もある。呼ばれない名前が、存在しないわけではない。
休憩終了のランプが点く。香澄は冷めかけた紅茶を飲み干し、赤い灯りの廊下へ戻った。
次の曲を流すまで、あと三分。今夜は自分の静けさを、誰かに読んでもらわなくても抱えていられそうだった。