新店舗までの採寸

「仮縫いの糸は、最後に全部ほどきます」

アパレル店の補正担当、西川朱莉は、宮下慶吾のジャケットへ待ち針を打ちながらそう言った。

慶吾は副店長で、試着モデルが足りないときはいつも手伝った。朱莉が背中の幅を測り、袖口に触れても、仮縫いのためなら近づける。糸を抜けば、二人はまた店員同士の距離へ戻った。

大阪の新店舗へ慶吾が転勤することになり、最後の制服を朱莉が直すことになった。新しい役職用の紺色ジャケット。仕上がれば、彼はそれを着て遠くの店へ行く。

これまで朱莉が直した彼の制服には、忙しい日のほつれも、展示替えで破いた袖もあった。慶吾は受け取るたび「またお願いします」と言った。その言葉が、同じ店で働くあいだだけのものだったと今さら気づく。朱莉は採寸表の肩幅を二度測り、少しでも作業を長引かせた。

最終日の閉店後、朱莉は裾のしつけ糸を一本ずつ切った。慶吾は鏡の前で黙っている。

「動いていいですよ」

それでも彼は動かなかった。

内ポケットから細いメジャーを取り出し、朱莉へ渡す。東京の店から大阪の新店舗までの距離が書かれ、その下に新幹線なら二時間二十七分、と赤い印があった。裏側には、来月から三回分の週末の日付。

「採寸、間違ってませんか」

「毎回測りました。会いに行ける距離です」

慶吾は一回目の東京行きを予約した画面を見せた。朱莉は二回目の大阪行きを自分で確定し、三回目は二人の中間の町へ変更する。

「交互にしてください。一人だけだと、裾がずれます」

「裾?」

「関係のバランスです」

朱莉はジャケットの胸元を整え、まだ残っていた一本のしつけ糸を見つけた。切ろうとした手を、慶吾が包む。

「それは残して」

「未完成になります」

「次に会ったとき、朱莉に取ってほしい」

初めて名前で呼ばれた。朱莉ははさみを置き、彼の指を握り返す。

店を出るまで、その一本も、その手もほどかなかった。

仮縫いの糸は最後に全部ほどく。

けれど転勤前夜、二人は仮のままだった関係だけを、ほどかず次の町へつないだ。