旧姓の封筒
片瀬叶芽は、小窓写真室のカウンターへ黄ばんだ写真封筒を置いた。表には、母の字で〈片瀬叶芽 五歳〉と書かれている。
叶芽は半年前に離婚した。仕事では結婚後の姓を使い続けている。説明が面倒だったし、その姓で積み上げた実績を手放すのが怖かった。来月、初めて訳した本が出る。編集者から著者名の最終確認が届いているが、どちらの姓を表紙に載せるか返事ができていない。
封筒の中身は七五三の写真ではなく、写真館の前で転んだ直後の一枚だった。膝を汚し、草履を片方脱いで、むっとした顔をしている。きれいな写真を撮り直したため、家では使われなかったらしい。叶芽は、こちらのほうが自分らしいと思い、複製を頼みに来た。
店主は封筒から写真を出す前に、表の名前を見た。会員カードの姓とは違う。何も尋ねず、保存用の新しい封筒を取り出し、古い文字を一字ずつ写し始めた。
〈片瀬叶芽〉
「今は、別の姓で仕事をしています」
店主はペンを止めた。新しい封筒を捨てず、名前の横へ細い空欄を一本引く。どちらを残すか、両方を書くか、叶芽が決められるようにした。
叶芽は古い封筒の自分の名を指でなぞった。旧姓だから懐かしいのではない。父との関係が良かったわけでもない。片瀬という音には、守られた思い出も、嫌な記憶もある。それでもこれは、結婚する前へ戻るための名ではなく、自分が選び直せる名だった。
「片瀬だけでお願いします」
店主は空欄を消しゴムで消し、封筒の右下に今日の日付を押した。五歳の写真と現在の複製を同じ一つの封筒へ入れ、古い封筒はさらに薄紙で包む。会計の宛名も、カードの表示を写さず、片瀬叶芽と手書きした。
店内の電話台を借り、叶芽は編集者への返信を開いた。
〈著者名は「片瀬叶芽」でお願いします。仕事上の表記も、刊行日から順次変更します〉
送信後、胸が晴れるようなことはなかった。変更の連絡先を思えば、むしろ面倒が増える。それでも、面倒を避けて誰かの姓に居残ることは、もうやめられる。
封筒の五歳の叶芽は、片方の草履をなくしたまま、機嫌悪く立っていた。名札が変わっても、その顔までは取り替えられていなかった。