春まで借りたまま
百瀬朝香と神代誉のあいだを、一冊の小説が六往復していた。
東京と金沢。会えない月には、読み終えた本を送り合い、気に入った一文の横へ薄く線を引いた。誉の線は青、朝香の線は赤。ページの余白だけが、二人の会話だった。電話では天気と仕事しか話せなくても、青い線のそばなら、朝香は自分の赤い線を重ねられた。直接なら飲み込む言葉ほど、紙の上では近くに置けた。
誉が春からドイツへ行くと決まり、本は最後の往復になるはずだった。
宅配カウンターの営業終了まで十分。朝香は梱包した本を抱え、誉と電話していた。
「読み終わった?」
「うん。終わった」
「最後、どうだった?」
「よかったよ」
本当は最終章を読んでいなかった。読み終えれば、返す理由しか残らないからだ。
朝香が好きと言えないのは、誉のやさしさを恋と読み違えているかもしれないからだった。彼は誰にでも本を貸し、誰の感想も丁寧に聞く。自分だけが特別だと決めつけるのが怖い。
「じゃあ、送って」
「分かってる」
「読み終わったなら、もう持ってても仕方ないだろ」
二度目の言葉が胸に引っかかった。
係員が「本日の受付はあと五分です」と告げる。朝香は伝票を差し出しかけた。
「誉は、向こうへ行っても誰かと本を送り合うの?」
「誰かって?」
「友達とか」
「朝香とは送らないの?」
逃げられない問いだった。伝票の宛先には、誉の住所がきれいな字で書かれている。
「だって、これで最後かと」
「俺はそう言ってない」
「でも遠くなる」
「今でも十分遠いよ」
誉は少し笑った。朝香は、笑われたことではなく、同じ距離だと言われたことに泣きそうになった。
「読み終わった?」
三度目は、答えを求める声だった。
朝香は梱包のテープを剥がした。
「読み終わってない。あなたの線がない最後のページは、まだ読めない」
電話の向こうで紙をめくる音がした。誉も同じ本を持っているらしい。
「じゃあ春まで貸す」
朝香は伝票を係員へ戻し、本をバッグにしまった。閉店の札が出されても、返却期限は延びたままだった。