春菊を最後に
古賀律希は、明日の夜からサイバーセキュリティ会社の監視室で働く。勤務は午後八時から翌朝五時まで。三日働き、三日休む。
母には「IT企業へ転職した」とだけ伝えた。前のコールセンターを辞めたとき、母は昼夜逆転を心配し、「次は普通の時間の仕事にしなさい」と言った。律希は頷いた。その一週間後に、夜勤の求人へ応募した。
前職では、眠れない夜に海外のセキュリティ記事を翻訳して読むのが習慣だった。夜勤ならその性質を仕事にできると思った一方、昼に働けない自分を正当化しているだけではないかという疑いもある。
夜のほうが集中できる。電話で怒鳴られる仕事より、画面の異常を追う仕事に興味があった。だが、母へ勤務時間を言えば、また心配される。明日は昼に寝て、夕方出社するつもりなので、電話が来ても出られない。
居酒屋「夜番」で、店主は鱈と春菊の小鍋を火へかけた。出汁がことこと鳴り、鱈の白い身の周りに細かな泡が集まる。昆布の匂いを含んだ湯気が立ち、最後に入れた春菊の青い香りが一気に広がった。
「最初から入れないんですね」
「春菊は最後だ。煮すぎると全部同じ匂いになる」
律希は母へ送る文章を開いた。『明日から仕事です。頑張ります』とだけ書いてある。このまま送れば、母は朝に出社すると思うだろう。嘘は書いていない。だが、後で夜勤を知ったとき、転職そのものより隠したことを責められる気がした。
文章を消し、勤務時間を書き足した。心配されるのが嫌で黙っていたことも書く。電話では説明しきれないから、今夜は文章で送る。母の返事を待って眠れなくなるかもしれない。それでも、初日の前に隠し事を一つ減らしておきたかった。
送信すると、すぐ既読がついた。返信は『昼に寝られるカーテン、ある?』だった。律希は少し笑った。仕事が合う保証も、夜勤で体を壊さない保証もない。
春菊はまだ鮮やかな緑で、噛むと苦い香りが広がった。鱈の身から出た熱い出汁が、その苦さのあとを静かに満たした。